生活人で在りたい、なりたい

ペペロンチーノをつくるときは、パスタを茹でるお湯に塩をちゃんと入れることで味付けをするんだよ、って教えてもらった。塩をたっぷり入れて作ったパスタは塩辛かったけれど、ぺろりと食べられちゃうね、って笑ってくれたから丸ってことにしよう。

会社で上司がお昼休みにパスタを教えてくれていて、一度聞いたコツをもとに週末にお家で作ってみよう、という気持ちになっている。今週末はカルボナーラを作るって宣言した。私にとっての料理は、今はまだ生活とくっついていなくて、ここ数ヶ月のふわふわした気持ちがなくならなくて、あんまり食べたいものも明確にならないままだ。トマト、茄子、梨。水分の多い野菜や果物を食べて生きていたい。料理もできる生活人でありたい、いや、なりたい。

10月は、あまりイベントにも足を運んでいないし、夜もそこまで予定を詰め込んでいない。会社で遅くまで残って仕事をすることはあるけれど、自分のなかでは休めている月だな、という実感は少しある。
でも、三連休が明けた今週、数人から体調悪い?疲れてる?ちゃんと生活してる?って聞かれて、よく分からなくなる。本も文章も読めているし、無理やり入れた予定に追われてクラクラしていることもない。銭湯でサウナにも入ったし、私なりに“生活”が送れている気もするけれど、なぜだろう。

人から言われて気付くことが多くて、自分で自分のことなんてちっとも見えていない。だから、私を見て気にかけてくれる人がいることはありがたい。そういう時期なのかも、と割り切って、慌ただしく過ぎるであろう11月に備える。解像度をあげたい、なんだか靄がかかっているような、度の合わないメガネをかけているような気持ち。

想像することと、直接言われることは、全然違う。
この人はこういう気持ちだろうな、こういうふうに思っているんだろうな。そう思おうとしても、だめなときがある。直接一言、「大丈夫」って言葉にしてもらえることの偉大さを感じる。想像力のあるしなやかな大人になりたい、訓練して自分の機嫌は自分でとれるようにって頑張っているけど、ぷつりと途切れてしまうときがある。想像力をも凌駕する力があるってこと、忘れないでおこうって思った。伝えたいこと、飲み込まないでちゃんと伝える癖をつけたい。小さいことから、ひとつずつだ。

ちょっと話が変わるけれど、習慣になっていることを変えようとしている人を見るのは、なんだか嬉しいようなくすぐったいような、応援したい気持ちになる。そして自分のことも鏡で映って見える。変化を面白がっているのがなんだかいい。そういうところが好きだ、嫌々やるんじゃなくて面白がっちゃう。仕事もやるべきことも、そうやって楽しんで(きついこともあるし、ベースの気持ちはそれだけじゃないだろうけど)やれる姿はきっと周りの人にもパワーを与えていると思う。すごいなぁ。

メモ代わりにしていたslack、最近あまり使っていない。そのことにもnoteを書いていなかったら気付かなかったな。長くなったのでおしまい。人に会って元気になった金曜の夜。

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