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お茶と合気道の親和性 (文庫版『日日是好日』より)

(1)必読本に出逢う


①『日日是好日』との出逢い

ある日、書店でふと手にした文庫本、
それが『日日是好日 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』(2008, 森下典子, 新潮文庫)でした。

私は気になった(もしくは気に入った)箇所に付箋を貼る習慣があるのですが、この文庫本を読了したとき、薄い本は付箋だらけになっていました。

この本は、合気道を稽古する人(特に稽古を始めて日が浅い人)にとっての「必読本」だと思いました。また、合気道に限らず、「これ」という正解や目的が見えにくい物事に取り組む、全ての方に刺さる本だと思います。


②「道」って通じてる

「茶道」と「合気道」?
と思いますよね。

私はこの本を読みながら、芸事や習い事、特に日本の伝統的な「道」は、大所高所から見れば通じているのだな、と感じました。この本のまえがきにはこうあります。

 世の中には、「すぐにわかるもの」と、「すぐにはわからないもの」の二種類がある。すぐにわかるものは、一度通り過ぎればそれでいい。けれど、すぐにはわからないものは、フェリーニの『道』のように、何度か行ったり来たりするうちに、後になって少しずつじわじわとわかりだし、「別もの」に変わっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体の中のほんの断片にすぎなかったことに気づく。
「お茶」って、そういうものなのだ。 

同書, 「まえがき」より, p5

合気道も、「そういうもの」だと思います。

「合気道」は試合をしません。形(かた)もありません。明確な「ゴール」や「目的」が見えにくい習い事です。

どうやら「お茶」も同じようです。
(この本から受けた印象では、「お茶」の方が「合気道」よりも、「わからない」という期間がずっと長く続くような気がしました。)

 そんな週一回のお茶の稽古を、大学生のころから二十五年続けてきた。
 今でもしょっちゅう手順を間違える。「なぜこんなことをするんだろう」と、わけのわからないことがいっぱいある。足がしびれる。作法はややこしい。いつまでやれば、すべてがすっきりわかるようになるのか、見当もつかない。

同書, 「まえがき」より, p3

(2)何かを始めた人に、そっと寄り添ってくれる本


① こういう本こそ、必要だと思う

この本は、何かを始めてみたはいいけど、「続ける意味がよくわからない」とか「やめようかな」と感じている人に、そっと寄り添ってくれる本だと思います。

正解や目的が見えにくい「何か」を始めたばかりの頃は、その「何か」の断片しか見えません。先生に言われたことをこなすだけで必死です。ですが続けるうちに、そうした断片が自分の中に蓄積され、溶けて、混ざり合っていきます。そして、拾い集めた断片たちを手がかりに、なんとなく(自分なりの)全体像が見えてくる。そういうものだと思います。

ですが、「正解」や「目的」が見えにくい「何か」を、それなりに長く(たいていは年単位で)続けるには、そうした状況に耐えるための、ある程度の根気と、そして時間が必要です(どちらも現代では敬遠されがちですね)。

『日日是好日』に描かれる筆者(以下、「森下さん」と表記させていただきます)は、「なんとなく」お茶を始めます。そして、あまり熱心ではありません。ときには「行くのやだな」と思いながら、それでも毎週土曜の稽古に通い続けます。そして、稽古が終わる頃には「行ってよかった」と思う、それを繰り返しています。

 土曜日の午後、私は、雨が降ると、(こんな雨の中、お茶に行くのやだな)と思い、お天気がよければよいで、(こんな気持ちのいい土曜日を、お茶なんかでつぶすのやだな)と思った。
 サボりたい理由は、毎週あった。いつもグズグズ迷い、遅くなってからたらたらでかけた。
 ところが、行けば必ず気が変わった。
(あー、やっぱり、来てよかった!)
 と思うのだった。
 なぜなら、武田先生のお茶室では、いつも何かが待っていた・・・。

同書, 「第六章 季節を味わうこと」, p106

私も、天気の良い休日の早朝に、仕事で疲れた寝不足の身体を引きずって稽古に向かうときなど、「なんで稽古に行くのかな」とよく思っていました。

そして、上の記述の「お茶」を「合気道」、「武田先生」を「多田先生」、「お茶室」を「道場」に言い換えれば、まったく同じことを私も感じていました。

できれば、合気道をはじめた頃にこの本を読みたかったと思いました。きっと、合気道を始めた頃の自分の背中に、そっと手を添えてくれたような気がしたからです。

② 伝書も必読だけど、、

武道を稽古する者にとって、「必読」といえる「伝書」があります。例えば次のようなものです。

  • 『不動智神妙録』(沢庵禅師)

  • 『天狗芸術論・猫の妙術』(佚斎樗山)

  • etc.

私は『天狗芸術論』が好きで、機会があるごとに読み返します。ですが、たいていの伝書は、すでに道を進み、高いところから見渡せるようになった名人・達人によって書かれたものです。

私の師匠は武道の専門家としてたくさんの伝書を読み解いた方ですが、ご自身の著書において、伝書のような書物についての注意点を述べられています。

 書物にはその道の頂に近いことが書いてあることが多い。頭の遥か上のことに気をとられるのを「極意にかぶれる」という。脚下照顧といわれるように、自分のそのときの足下を見て稽古しなければならないということだろう。

多田宏(2018),『合気道に活きる』,日本武道館, p8

なにより、何かを「始めてみたはいいけど、やめようか迷っている」というような方にとって、名人・達人が書いた書物は、ほとんどなんの意味も効果も持たないと思います(自分の体感や実感を伴わない文字情報は、むしろ邪魔にさえなりかねません)。

それよりも、『日日是好日』のように、「稽古に行きたくないな」「もうやめようかな」という、当たり前の感情に寄り添ってくれる本のほうが、よほどその人の背中を支えてくれるはずです。

同書の後半には、お茶を初めて13年目、森下さん(ご著者)がついに「お茶、やめる」と決心する場面が出てきます。ですが、いろいろあって最終的には次のような結論にたどり着きます。とても素敵な部分なので、ぜひ読んでいただきたいです。

「やめる」「やめない」なんて、どうでもいいのだ。それは、「イエス」か「ノー」か、とはちがう。ただ、「やめるまで、やめないでいる」それでいいのだ。

同書,「第十章 このままでよい、ということ」, p185

③「読みもの」としておもしろい

なによりも、『日日是好日』は、読み物としてとても読みやすい。それなのに、読み応えがあります(現代風に言えば「コスパ」「タイパ」が良い)。

単に茶道の解説を並べたり、茶道の素晴らしさを熱く語る本ではありません(茶道の解説など、ほとんど出てきません)。本書では、森下さんがお茶室にいながら(たまに外に出て)、見て・聴いて・感じた情景描写が淡々と述べられています。その描写を追うだけでも、日本の多彩な季節を感じることができます。

まずは一度お手にとって、「まえがき」を読んでほしいと思います。どの書店の文庫コーナーにも、1冊は置かれているはずです。

(3)『日日是好日』の素敵なトコロ


①「お茶」について書かれた本?

文庫本の解説を、噺家の柳家小三治師匠(十代目・故人)がお書きになっています。そこで師匠も書かれていますが、副題に「お茶」とあっても、これは「お茶」の本ではありません(いや、全編「お茶」について書かれているんですけど、、)。

小三治師匠がこの本の所在を書店員に尋ねると、[茶道・華道]のコーナーへと案内されたそうです。その時の小三治師匠の感想が、この本の本質を的確に表現しているように思います。少し長いですが、ここに引用させていただきます。

 違うんだよ。ここにあるべき本じゃないんだよこの本は。副題にー 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ ーとはあるけれど、これはお茶の本じゃないんだよ。いや、お茶の本ではあるけれど違うんだよ。これからお茶をやろうとしている人やお茶をはじめてうろうろしている人のためのコーナー。こんなところに置く本じゃないんだ。頭の中でつぶやいた。じゃどこのコーナーに置けばいいんだって問われても困るけど、とに角ここじゃないんだよ。いや、ここにも一冊ぐらい置いてもいいけど、とに角ここじゃないんだよ。だから女流作家エッセイコーナーでもいいし、んんそれからそれから、んんと、宗教の本、哲学の本、人生読本じゃあ堅いなあ。生きて行く楽しみ・・・日本国民全員の副読本、いやあ、なんだか外れていくなあ。だからそういう本なんだよ。

同書, 「解説」より, pp246−247

②「お茶」を通した「世界」の見方

小三治師匠(十代目)は落語の名人ですが、あらゆる芸事、そしてあらゆる世界に通じる「世界の見方」のようなものを、この本に感じ取られたのだと思います。師匠は解説をこのように締めくくります。

 若いうちは、世の中で面白いと思われることを一生懸命やろうとする。でも、何か中身が伴わない。いろいろなことを知ってくると、普通に淡々と述べただけで、その向こうにさまざまなものが見えるようになる。これはそういう本です。すごい。

同書, 「解説」より, pp251-252

本の中では、森下さんの日常生活におけるさまざまなイベントが断片的に描かれます(就活の失敗、結婚式直前でのパートナーの裏切り、父との突然の死別など)。こうした、大きなライフイベントによる短い稽古の中断はあっても、土曜のお茶の稽古は続いていきます。そして、稽古に行けば、日常のあれこれを忘れられる瞬間に助けられることがある。または、お茶室でのふとした気づきによって、自分を繋縛するさまざまな囚われから解放されることがある。

そのような、「お茶」という1つの「道」を通した「世界の見方」、「世界への関わり方」が描かれています。この本を読み進めていくと、日本の伝統的な「道」に関わるとはどういうことなのかを、追体験できるように思います。

③「大人の習い事あるある」満載

森下さんがお茶をはじめたきっかけは、お母様からの勧めでした。決して自発的な興味から始めたわけではありません。

 ある日、母が突然切り出した。
「典子、あんた、お茶を習ったら?」
「えっ! なんで私が・・・」
 私は思わず顔をしかめた。自分がお茶を習うなど、毛筋ほども考えたことがなかった。
 第一、日本の稽古事なんて、古くさくてカッコわるい。

同書, 「序章 茶人という生きもの」, pp22-23

お母様の勧めと、いとこ(ミチコさん)が乗り気だったこと等に後押しされて、筆者は何気なくお茶を始めます(上述のように、どちらかといえば、後ろ向きからのスタートです)。

本書ではそのようにして始まる、「大人の習い事あるある」にあふれています。大小違いはあれど、「習い事」を始めるときは、そんなものではないでしょうか。何気なく始めた趣味や習い事が、気づけば長く続いている。やる気に満ち溢れて始める方よりも、何気なく始めた方のほうが続くというのは、どこにでもよくある話です。

習い事(合気道に限らず)を始めたけど、通うのが面倒だし、他に楽しいことはたくさんあるし、やめようかな、と考え始めた方にこそ、ぜひ本書を手にとっていただきたいです。きっと、もう少し続けてみようかな、という前向きな気持になれると思います。

ここで、「ものを習うこと」に関して書かれた、私が好きな箇所を引用させていただきます。大人になると、経験などに基づく「プライド」なるものが、頭をもたげることがあります。ですが、そんなものは、何かを習い覚える上では邪魔でしかありません。

 ものを習うということは、相手の前に、何も知らない「ゼロ」の自分を開くことなのだ。それなのに、私はなんて邪魔なものを持ってここにいるのだろう。心のどこかで、「こんなこと簡単よ」「私はデキるわ」と斜に構えていた。私はなんて慢心していたんだろう。
 つまらないプライドなど、邪魔なお荷物でしかないのだ。荷物を捨て、からっぽになることだ。からっぽにならなければ、何も入ってこない。

同書,「第十章 このままでよい、ということ」, p48 

大人にとって、「習い事」をする最大の利点は、普段の仕事や生活で生まれた「プライド」なるものを、そのときだけは脱ぎ捨てられることかもしれません。私も、あらゆるものに対して常に「ゼロ」の自分を開いていたいと思っています(自戒を込めて)。

(続編)『好日日記』もオススメ


『日日是好日』は、著者である森下さんが、お茶を始めて25年が経つというタイミングでお書きになった本です。2018年には、黒木華さん主演の映画が公開されました。

その映画公開に合わせて、続編である『好日日記』(2018, 森下典子, PARCO出版)が出されました。こちらもオススメです。

同書は、森下さんが50代の頃、数年にわたって付けていたお茶の稽古の記録がベースになっています。森下さんは20歳のときにお茶を始めていますので、茶道歴30年以上のときの記録ということになります。そのため、『日日是好日』とはまた違った、落ち着いた、どっしりとした味わいを感じられます。

ちなみに、同書は季節ごとの章立てとなっています。冬の章に始まり、春→夏→秋と進み、ふたたびの冬の章で終わります。

 これはお茶の稽古の記録だが、季節のめぐりの記録でもある。読んでみると、毎年、ある季節に、一言一句、たがわぬ同じ感情を抱く記述が所々にあって、改めて、季節と人の心は一つなのだという思いを深くした。

同書,「あとがき」より, p220

『日日是好日』・『好日日記』を読むと、日本には多彩な季節があり、(意識する・しないに関わらず、)日本人は季節とともに生きているのだということを、認識させてくれます。

『日日是好日』も、その続編である『好日日記』も、どちらもぜひお読みいただきたい本です。特に(合気道に限らず)、習い事をされている方には「必読の書」だと思います。

また、そうでない方にとっても、日本をめぐる多彩な季節の味わい方をそっと教えてくれる、素敵な読み物です。

最後に、『好日日記』から私が最も好きな部分を引用させていただきます。お稽古だけでなく、あらゆることを「一期一会」のつもりで味わいたいですね。

 武田先生が自宅で転倒し、骨折したのは、ちょうど八十歳になられた年の秋だった。
 一カ月半の入院の後、先生は自宅に戻られたが、以前のように正座し、立ち座りすることはできなかった。
 翌年の初釜の日、杖をついてゆっくりと私たちの前に現れた先生は、
「私ももう終りが見えてきたわ。みなさんはできるだけ早く他の先生を見つけて、未来を切り開いてちょうだい」
 と、おっしゃった。
 みんな、静かに耳を傾けていたが、結局、その言葉には誰も従わなかった。
 その後、先生はリハビリの甲斐あって歩けるようになり、椅子に座って、また稽古をしてくださるようになった。
 だけど、それまでとは稽古場の空気が変わっていた。みんな心の中で、「この時間は永遠には続かない」と意識していた。
 変わらないものなどない。ずっとこのままではいられないのだ。
 先生も私たちも・・・。
 私たちはお稽古の一回一回を、惜しむがごとく味わうようになった。

同書,「まえがき」より, pp11-12

(本文終わり)



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