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6. 身から出た錆、過去の愚かさ弱さを包み込みたい。なぜ勉強するのか、人生初の悔しさや失望の芽生え。

辛酸を嘗めた中高時代。いつも一緒にいた兄妹が独立する時を迎える。

自殺願望すらあった中高時代は、暗黒期と捉えていたため、記憶に蓋をし、同級生との継続的な交わりを拒んでいた。が、丁寧に思い返すと塗りつぶしたくなる思い出だけではなかったのかもしれないと、思いはじめている。同級生による無意識な心ない言動で傷を負った記憶が心にずしんと重く残り、引きずり込まれていたが、それだけではなかった。己の愚かさや驕り、弱さも大いにあったのだと認識、受け止めることができている。彼らの非を肯定するわけではなく、無慈悲さで痛みを負う人が減ることを心から願っている。が、彼らの非が起こる背景には、彼らなりの事情や家族環境での満たされなさがあったはず。彼らも苦しみを抱えていた存在であったのであろう。赦したい、過去の彼らも過去の自分自身のことも。彼らや私が悔悛によって心の清らかさを取り戻し、必要なだけの赦しを得られることを願って。過去の、いえ、今でも心の内にある弱さを、受け止める機会をもつことができ、容赦なく突き刺さる痛みを伴いながらも、それ以上の慈悲深さと感謝を感じ、過去の苦を手放せるよろこびを感じている。

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さて。暗記や記憶を苦手とする私が受験という壁をぎりぎりで乗り越え、和歌山にある中高一貫校に。兄とは異なる意思で、地元の中学校に行きたくない一心で、中学受験させてほしい!と両親に懇願。小学五年生から塾に通わせてもらっていた。きっかけは、別の習い事やコミュニティで、家族ぐるみで四、五年間を共にした他校の同級生。負けん気が強く、心の狭さを露わにしていた彼女たちのグループから、見下されたような蔑んだ目で見られたような気がしたことで、当時の私はひどく動揺した。幸いなことに、私が通う小学校の区域は街並が荒れず、整っていることもあってか、住む人たちの心も荒れにくく整いやすいのであろう。品性や風格が一定あり、血の気は多いものの、朗らかで優しい人が多い印象だ。ただ、中学校で合わさる他校のいくつかはそうではない。ゆえに、中学校の治安はよろしいとはいい難く、無意識に他者を謀る可能性を感じる存在に免疫のない私は、不穏な環境には近づきたくなかった、恐れていたのだ。

大阪にある名高い進学校にご縁がなかった私は、山の一片を切り開いたような地にある、自然の豊かさにあふれ、ほのぼのした空気が漂う地へ。年中小鳥のさえずりが聴こえ、時折食堂裏でたぬきをみかけ、毎朝下山した動物の糞が校庭にある空間。愛おしいね。実家から片道一時間半、大抵の場合座ることができる電車とバスを乗り継ぎ、紀ノ川を越えた六年間。当時、最も栄えていた商店街の半分が既にシャッター街になっていたほどには繁栄していなかった和歌山市内。カラオケとプリクラだけが遊び場で、危ない橋も誘惑もなく、その意味では安全であった。薄氷を踏むような状況というのは、いかなるときも、人間そのものか人間が創り出したものなのだなと感じる。

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昔の写真を見るとおそろいか色違いの服を着ていることが多く、まるで双子のように連れ添っていた妹は、翌年から大阪にある中高一貫校に通うことに。これが姉妹にとってはじめての独立となった。また、時を同じくし、京都大学に合格した兄が一人暮らしをはじめたことで、より一層交わる機会が減る状況に。

よろこびと誇りで胸いっぱいだった母は、大好きで頼りにしている兄が近くにいなくなったことで、歓喜とおなじくらい寂しさも感じていたようだ。が、よろこばしいことに、その頃の一年間、母は復職し、教職を執っていたり、外部の様々な活動に精を出していたことで、気持ちが紛れたり救われていたようだ。母にとっての兄は相当に特別な存在で、四年後、兄が東京での就職が決まったときは、落胆の大きさのあまり鬱になったほど。一方、父は兄の合格をよろこんでいたのか、それ以上に心の底で当然そうなると認識していたのかはわからないが、「年間三千人弱入る学校だ、天狗にならないよう気をつけよ。謙虚さを忘れずに。」といった発言を繰り返していた印象がある。実際、兄が高校生の頃、父の言葉から「あ、おとうさんは、僕が京大に行くのが当たり前と考えているんだな」と感じていたらしい。対娘たちとは違い、兄には手厳しかった父。社会人経験六年後、半年ほどの勉強で医学部に合格した優秀な父の存在が、幼い頃から見えないプレッシャーになっていたのであろう。

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その頃、父は相変わらず夜中にも呼び出しが入る現場で、人様の命を助けるべく懸命に切磋琢磨していた。志に忠実に、公と家族を想い、四六時中尽くしてくれている姿にはまったく恐れ入る。両親共に天職に就いていると心から感じる。

狂暴さが露わに。身から出た錆。過去の愚かさ弱さを包み込みたい。

先に記したように、心に十分な余白がなく、受け取ってもらえる先がなく、つらかったであろう私は、クラスメイトにとって、すこしばかり手に負えない一面のある存在であったのかもしれない。家族のことで特につらい思いをしていた一、二週間ほどの中で、授業中に何度か声を出して泣いては泣きやめなかった記憶がある。生徒指導部の厳しさで有名な先生が壇上でおろおろしていた表情が今でも浮かぶ。心のコップが、いっぱいいっぱいとなり、あふれていたのであろう。当時の私はあまりにも弱く、自分も他者も守ることができないどころか、癒えない傷を武器に、自分も他者も斬り刻むように傷つけてしまっていたのかもしれない。何をしたかを思い出せないが、無意識に他者を傷つけた場合、傷つけた側の記憶は、傷つけられた側の記憶よりも、心には残っていないものだ。

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七月の三者面談で、口調が強いという指摘でショックを受けたことを今でも鮮明に覚えている。きつめな口調の泉州便とやわらかめな口調の和歌山便で、方便の違いもあれど、それだけではなかったはずだ。語尾が強かったであろうし、言葉もきつかったのかもしれない。傲慢さもあったあったのかもしれない。母に対しては怒りが募っていたことで、相当きつい言葉を使っていた記憶がある。かわいくてしかたのない妹に対しても、怒りの矛先が向いていたことが何度かあったほどには、心が荒れていた頃であった。

もしも、学校内でなにかをきっかけに心が乱れて、母に対する言葉とおなじような言葉をクラスメイトに対して使っていたとしたら、驚かせてしまったであろう、怖がらせてしまったであろう、屈辱的であったかもしれないね。ごめんなさい。もしかすると、仲が良かった友人のことを、別の友人に同調して両舌を漏らしていたかもしれない。それを本人が知ったら、悲しかったであろう、悔しかったであろう、がっかりしたであろう、くじけたであろう。ごめんなさい。仲が良かった二人の女友達の悲しげな表情が頭をよぎる。その後、素直に謝ったであろうか。自分本位になっていなかったであろうか。本当にごめんなさい、赦しを請いたい。そして、二人が受けた傷を癒やせていることを願っている。

それ以降は覚えていないが、十月に行われた文化祭の桃太郎的演目の劇で、お姫様役に先生から推薦してもらえたほどには、クラス内での心地は悪くなかったのかもしれない。ということは、それ以降には誰かを傷つけていなかった可能性が高い。よかった、、今さらながらに一安心している。興味深いことに、中一のクラスメイトは、一部を除き、高三の最優秀組とほとんどおなじ構成であった。この多くが、高校卒業後、医学部や名のある国公立に進んだようにおもうが、総じて穏やかで、派手さはなくも優しく、落ち着きと活気、責任感があり、堂々とはしていてもエゴが強くない人柄の人が多かったことを思いだした。たけのこのように、心まっすぐ素直に伸びていったのであろうなあ。彼ら彼女たちと中学のスタートを共に切れたことに、また、俯瞰して見守る中で時に必要な厳しさを与えてくれた担任の先生の存在に、感謝とあたたかさを感じている。心からありがとうを込めて。

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好きなことしかしたくない誠実さが仇に。人生初の悔しさや失望が芽生える。

中学二年生になってから、成績ががくんと落ちた、というよりは、科目によって極端に差が出はじめた。幼少期から好き嫌いがはっきりしており、今は中庸に近づいているものの、好きなことしかしたくない!なぜ本心がしたくないって言っているのにするのだろう? 私はしたくないことはしない!と我道を歩んでいるからであろう。今では自分自身の思いに誠実なその在り方を誇りに感じている。

大好きな数学に加え、社会(地理歴史、公民)、古典といった理論やストーリーで捉える科目は好きで得意なものの、それ以外は伸び悩む。英語や生物などの実践がなく淡々と記憶が必要な科目が苦手、化学や物理は興味のなさから理解が追いつかなくなったことでお手上げ。自分の気持ちに鈍感で、思いや考えを文章にするのが苦手だったことや、文字や部分的な描写だけでは捉えにくい人の思いや感情を読み解くのはこじつけにすら感じ、国語(現代文)は小学生の頃からあまり好きではなかった。

幼稚園の頃と異なり、勉強で得られる発見や好奇心を純粋に愛おしんでいた瞬間よりも、主に情報を詰め込みテストで確認する流れに圧倒される状況が続く。もしかすると、これを挫折と呼ぶのかなとおもったが、達成感や納得感がない状態への葛藤や虚無感が適切であろう。おもしろいからたのしいから学びたい!は納得感がある。「おもしろくないしたのしくない学びたくないのになぜ取り組むのかな。進学校へ歩む道を自分で選んだけど、テストで良い点をとって、何になるのだろう、何をしたいんだろう。」と、勉強の意義そのものに対し、疑問を抱いていたのかもしれない。

記憶には薄いのだが、常になぜへの納得感が原動力であったため、理由がかわからない状況やそのための行為、終わりなき繰り返しの流れに飲まれていく状態に、困惑しもやもやしていたのではないかとおもう。きっと、所属している環境から求められ続けるものを形にできない悔しさや歯がゆさが芽生えていたであろう。友人との間にはっきりとした優劣が生じてくることで、屈辱や行き詰まりを感じ、その空間に身を置いていることが居心地悪かったかもしれない。力がみなぎる環境へと自らを導いてあげることにむずかしさを感じ続ける中で、自分自身への誇りや信頼が揺らいだり崩れたりしたはずだ。次第に、自分を芯から好きになれなくなり、自分自身への失望や嫌悪感、劣等感といった新たな存在が心に宿っていたであろう。

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ちなみに。中高の六年間で、後にも先にも、成りたい!とおもった職業は「医師」だけであった。祖父が入院し旅立ちが近づいていたとき、お医者さんになっておじいちゃんを助けたい!と純粋におもったのだ。ただ、医学部へ進学する上で必要な偏差値に到達するには、高校二年生時点ではかなり無理があったので、割とすぐに潔く諦めた。というのも、高校時代の教科書を社会人になってからもたのしむほど数学は飽き知らずであったが、理科が全般的に好きではなかったので救いようがなかった。おもしろいことに、兄妹三人とも、人生で一度は医師を志している。父の誇り高き背中を見て育ったのだろう。最初で最後の家族五人での旅行をしていた先のプールで、救命救急をしていた父を思い出した。

当時の自分、他者、未来の自分のこどもに寄り添いながら対話を重ね、手を差し伸べていきたい。「どのようなことに興味関心があるかな。どのようなことをしているときにわくわくどきどきするかな。どのようなことをしながら、どのような対象に対して、たとえば、他者や他生物、地球、このセカイ、手を差し伸べたいかな。貢献したいかな。どのような状態で生きていたいかな。にこにこかな。わからないならわからないでいいね。わかったときにまたお話しようね。」と。

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