たれ目で助かった話
大学時代、1年半くらいパン屋さんのバイトをしていた。
私が入るのは決まって朝7時から12時までの5時間。
バイトが終わると、眠たい目を擦りながら電車に乗って、大学の授業を3限から受けた。
オーブンの匂いが身体に染み込んだまま、
シェイクスピア喜劇での言い回しがどうだとか、
アメリカ南部に残る確執が何だとか、
そんなことを学んでいた。
パンの焼ける香りと英米文学が、私の日常だった。
(ちょっとお洒落に言ってみた、へへ)
眠たい目を擦りながら、今日もパン屋のレジに立つ。
パン屋の店長は、おしゃべりで明るい、50代くらいの女性だった。
店長は口癖のように、
「みかんさんってたれ目よねぇ。かわいいわ。」
とつぶやき、微笑んでくれた。
パンダの形のクリームパンが新商品で出た時には、
「このパンダ、目がたれていてみかんさんみたいよね。可愛いからお気に入り商品なの。」
なんて話していた。
「このパンダ、パートの◯◯さんや◯◯さんにも似てるわね、うちのお店のパンダ三姉妹ね。」
パンダ三姉妹、と言われた主婦のパートさんが楽しそうに笑った。
つられて私も、えへへと笑った。
私にとって、居心地の良いバイトだった。
あることに気がつくまでは。
朝のシフトは決まって店長と、主婦のパートさんと、バイトの私の三人体制だった。
私より後に入ったバイトの子達もたくさんいたけど、なぜかすぐ辞めてしまうので、あまり会う機会がなかった。
なぜすぐに辞めてしまうのか。
彼女たちが、たれ目じゃなかったからだ。
いやいや、そんな訳あるかい、って感じだけれど、
実際、パン屋に残ったバイトの子達、パートの主婦さんは皆、優しい雰囲気のたれ目な女性ばかりだった。
店長は、たれ目のスタッフをとにかく可愛がる反面、
他のスタッフには、とても厳しかった。
「…あのさぁ、まだそんな事ができないの?」
店長がレジに立つバイトの女の子に冷たい言葉をかける姿を見たときは、ぞっとした。
彼女は私よりたくさん出勤して、間違いなくこのお店を支えているスタッフだったから。
誰にでも優しくするのは難しいかもしれない。
でも、優しくする基準が、「たれ目かどうか」だったとしたら…?
急に店長が怖くなってしまった。
外見で贔屓をする人の下で、働きたいとは思わなかった。
「来月のシフト、今日までだよ?」
ふと店長に声をかけられた時、気が付くと私は
「辞めます」と答えていた。
答えたものの、驚いた店長の顔を見て我に返り、
「あ、あ、兄が、一人暮らしするんです。東京で。たぶん、高田馬場あたりで。私もそこから大学行った方が早いので、兄と、一緒に暮らそうと思って。」
慌てて、へんてこな嘘をついた。
何だよ、一人暮らしをする兄と一緒に暮らすって。
一人暮らしちゃうやんけ。
兄は地方の立派な国立大学に通っていたので、
私と一緒に暮らす訳がなかった。しかも高田馬場で。
それでも、「辞める」という言葉はすんなり届いたようで、残りのシフトを確認した後、すんなり手続きの用紙を渡してくれた。
今でもたまに考えてしまう。
店長が本当に「たれ目びいき」をしていたのか。
誰にも聞くことのできないその疑問は、
記憶の隅に、残り続ける。
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