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蓮實重彦、あるいは、忘却のための変奏、現在進行形の感染結果。


 深読みなる「物語」に耽溺することなく、そこに書かれている(「描かれている」ではない)「表層」にまなざしを向けるべきである。映画をめぐる文章にも一貫している姿勢が、長年にわたって予告されつづけ、遂に実現してしまったこの大著においても、なんら変わることなく貫かれている。いや、貫かれているという表現は正しくない。息づいている。さらに言えば、生きている。
 フローベールは小説『ボヴァリー夫人』において、「エンマ・ボヴァリー」とは一度も記さなかった。蓮實重彦はこの一点を、それが出発点でもあり終着点でもあるかのように、幾度となく繰り返す。おこないとしては明らかに執拗であるにもかかわらず、現象としてはいささかたりとも執拗には映らないこの振る舞いが、強調のための反復ではなく、忘却のための変奏に思えるのは、はたして著者ならではの文体、筆致だけによるものだろうか。
 蓮實は、世界のフローベール論者たちが、小説には書かれていない「エンマ・ボヴァリー」という固有名詞を「捏造」している事実の数々を、呪文でも唱えるように列挙した上で、自身の論を召喚するが、そこから記されていくことを「要約」することだけは断固として拒みたいと私が考えるのは、決してある種の執拗さには加担していかない「重層化された透明性」(それを、忘却のための変奏、と呼んでみたいのだ)に感染しているからに他ならない。
 そもそも蓮實の文章は感染性が高いが、その特性自体が、来るべき『『ボヴァリー夫人』論』を準備していたと思わせるものがここにはある。語彙にしても、用法にしても、彼の著作を一度でも読んだことがある者なら、その文字の連なりから、既視感が徴(しるし)のように浮かび上がってくることから逃れることはできないだろう。何が書かれているかではなく、どのように書かれているかでもなく、いま目の前にある一文がいかなる現象を巻き起こし、いかなる大気を派生させているかを感じとるならば、読者は蓮實がかつてもーーしかし、それがいつのことなのか、なについて書かれたときのことなのかも判別しえぬままーー同じことをしていた、というよりもむしろ、「同じことしかしていない」ことに気づくことになる。
 自身の論を「批評的なエッセイ」と名づける作者は『ボヴァリー夫人』の「不確かさ」をあらゆる角度から具体的に指摘しつつも、かつて書いたことはもちろんのこと、そして、これから書くかもしれないことの存在すらも忘れ去っていくことこそが、「表層」を読むことだと体現しているように思う。あるページに書かれた部分を引用するならば「そのつど、いま読みつつある「文」だけを肯定するしかない」のが、蓮実重彦の魔力であり効能であることを、私たちは知ることになる。著者はこうした「記憶喪失に陥ることもまた回避したい」と述べるが、その文言を彼の文章そのものが裏切っていくことの心地良さこそが、蓮実重彦を「読む」ことに他ならない。
 蓮實が「同じことしかしていない」のは、文体の誇示ではなく、過去もなければ未来もない、ただ「いまだけを肯定している」からなのではないか。
 文は蓄積されない。これまでも蓄積されなかったし、これから先も蓄積されていかない。文を読むことも書くことも「いまに感染する」だけこと。そして、この書評もまた現在進行形の「感染結果」なのである。

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