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作者とわたしたちの「外交」。

33年後のなんとなく、クリスタル
田中康夫

 真の洗練とは、愚直であることを決して手ばなさないことなのだ。読了後に降りてくるのは、数多の論拠を軽々と超えた、ただ一筋の何かである。33年前の前作がそうだったように、いや、それ以上のしなやかさで、田中康夫は一切の誤解をおそれずに小説を書いている。
 『なんとなく、クリスタル』を執筆したと思われる男を主人公に、彼の独白で物語が繰り広げられるのであれば、それを私小説、あるいはエッセイ、さらにはただの私信のようなものとして定義付け(カテゴライズ)したがる読者は少なくないだろう。しかし田中はその防衛のために「小説らしさ」といったまやかしのヴェールを纏ったりはしない。パラレルにもメタフィクションにも逃げ込まない。「機転」に「エスプリ」とルビをふる作者は、臆せずものを言うとき、それが茶目っ気となる筆致のみを駆使して、正々堂々と作品を紡ぐ。「話しても、人間は完璧には判り合えない存在だ。が、であればこそ、会話する価値が、その必要が生まれるのだ。」と記す。33年前、あの小説の主人公(ヒロイン)は「同棲ではなく共棲。従属ではなく所属」と女性と男性の関係を述べた。それがただの自己主張(メッセージ)ではなく、読者と小説の、作者と私たちの、私たちと世界の、世界と時間の、時間と空間の関係そのものについての普遍であったことを、豊かな時差とともに知ることになる。だからこそ、の「33年後」。ここには言い訳がない。カモフラージュがない。なぜなら、田中康夫には、小説にしかなしえぬ「外交」をおこなっている確信があるはずだから。
 この小説で綴られるあらゆるシチュエーション、あらゆる自己は、会話する価値と必要に、愚直なまでに捧げられている。

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