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祖母の口紅

祖母はパーキンソン病を患っていた。

体の震えやこわばりで、だんだんと身の回りのことをするのが難しくなっていって、最後の何年かは一緒に暮らしていた。

ある日、家族で近所の和食レストランに行った。

出かける時、祖母は赤い口紅をつけて部屋から出てきた。化粧をしている顔を見たのは初めてだった。白いブラウスに赤い口紅。震える手で塗ったのだろうと思った。

祖母はいつものようにおぼつかない足取りで、だけどいつもよりうれしそうに、父に手を引かれて歩いていた。

その頃の祖母は、1人で箸を使うのもやっとだった。

首でまっすぐ頭を支えることもできず、うつむきがちに食事をするので、だんだんと白いブラウスが口紅で汚れていった。

帰り道、祖母の手を引きながら父が「化粧するから服が汚れるんだ。なんで今日に限って口紅なんか塗ったんだ」と怒った。母やわたしや妹が、父に何か言い返したような気がするが、よく思い出せない。祖母は何も言わず、うつむいて歩いていた。

もう20年も経つのに、ずっとその日のことが忘れられない。

祖母はあの日出かける前に、どんな気持ちで鏡に向かって口紅を塗ったのだろう。なんてことのない家族の外食だけど、楽しみにしてくれていたに違いない。「おばあちゃんきれいだね」と、どうして伝えてあげられなかったんだろう。

うまく塗れてるかどうかとか

似合っているかどうかとか

自分を美しく見せたいとか

誰かに褒めてもらいたいとか

そういうことは一面で、メイクって、人がその日を楽しむ気持ちのあらわれなのだと思う。人はその日を過ごす自分の姿を思い描いて、その日に会う人を思い浮かべて、メイクする。

あれから20年経った今。

マスクで顔の半分は隠れ、スクリーン越しでしか人に会わない日も増えた。

だけどわたしは毎日メイクする。メイクが大好きだ。祖母が教えてくれたのだ。今日を楽しむ気持ちを。それを表現する方法を。


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