【小説】もうひとりの転校生 第4話
第4話
「今日も新幹線をご利用くださいまして、ありがとうございます。この電車は──」
車内に何度目かのアナウンスが流れた。続く英語の案内に耳を傾けるが、最後の「サンキュー」しか聞き取れない。
同期の用意していた資料に目を通し終えた俺は、ポケットからスマホを取り出した。同期からの連絡は一時間前を最後に、新しいものは届いていない。
新幹線に乗ってまもなく、様子を窺う連絡が届いた。無事にチーム全員で乗車したことを告げ、
『そっちはどうだ。俺の仕事は』
同期に尋ねた。うちの会社では、それぞれの社員のタスクが共有のファイルで閲覧できるようになっている。しかし、それだけでは細かいところまではフォローできない。
スマホで指示を出そうとすると、
『いや、大体はわかる。不明な点があったらこっちから聞く』
というメッセージを最後に沈黙した。どうやら、俺の代わりをなんなくこなしているようだ。
同期はできる男だ。自分の仕事をするだけでなく、全体に抜かりなく目を配っている。俺の手掛けていた仕事についても、しっかり把握していたのだろう。それにしても、こんなに簡単に取って変わられるとは、少しむかつく。
仕事の指示の代わりに、我が家の住所を送っておいた。それから、普段の家での立ち振る舞い、妻や子供の呼び方など。最後に、くれぐれも妻には手を……と書きかけてやめた。しつこく念を押し過ぎると、かえって興味をそそるような気がした。
「あれぇ、富士山は?」
隣で寝ていた後輩の小島が目を覚まし、窓の外に目をやった。大きく欠伸をしている。
「富士山はとっくに通過したよ」
そう言うと、小島はじんわり目を細め、再びシートに身を沈めた。呑気なやつだ。
到着したらすぐに会場入りの予定だ。この販促イベントはいくつかの企業による合同の展示会で、うちの会社が宣伝するのはスポーツ用品だ。わりと広めのブースをもらっている。
イベントは明日からで、今日は名古屋支店のスタッフと合流して準備をする予定になっていた。来年名古屋で開かれる国際スポーツ大会のスポンサーの一つとして、末席だがうちの社も名を連ねている。そのため、このイベントにも会社としても力を入れており、多くのメーカーや販売店を招待していた。
同期のことだから準備に抜かりはないだろうが、なにしろ俺はピンチヒッターだ。俄に緊張してきた。さっきから腹が痛い。
まもなく名古屋へ到着することをアナウンスが告げる。俺は周囲を見回した。後輩たちはそれぞれのシートで思い思いに過ごしていたが、俺の視線を受けて慌てたように背筋を伸ばした。ぴりりと緊張感が走る。
へえ、こいつら、同期の前だとこんな感じなんだ。俺の前ではいつもなめた態度のくせにな。くっそ。
隣の小島は口を開けたまま寝ている。こいつの場合は相手が誰でも態度が変わらない。ある意味、大物だ。
「おい、起きろ」
小島の肩を揺すった。新幹線が速度を落とし、後輩たちがスーツケースを網棚から下ろす。窓の外には都会的な光景が広がり始めた。
「え、もう着いたんすか」
寝ぼけまなこの小島を立たせ、新幹線を降りた。全員が揃っているか確認する。
チームのメンバーは男女合わせて八人。責任者は同期、つまり俺なので、メンバーは全員が後輩だ。勉強のためか、ほとんど新人のような子も混じっている。
小島を先頭に立たせて、俺は後ろから歩いて行った。みんなが改札をくぐっていく中、一人の女子が「あっ」と小さく叫び、列から離れた。慌てたようにポケットをまさぐっている。
ええと、あの子は確か……。
「瀬能さん」
声をかけると、
「あっ、前田さん。すみません!」
なにも言っていないのに謝られた。
「どうしたの」
尋ねると、彼女は怯えたように目を伏せ、
「切符が見当たらなくて……」
消え入りそうな声でそう言った。スカートのポケットに手を入れて裏地ごと引っ張る。なにか細かいものがばらばらと床に落ちた。慌てて拾い上げたら、片方だけのピアスとブリッジだった。それも三つも。
瀬能はるか。思い出した。入社した時、ひそかに話題になった新人だ。成績は優秀、顔は芸能人かと思うほど可愛くて、スタイルも抜群。けれど、それを帳消しにするほどおっちょこちょいで失敗ばかりしている。
そういえば以前、同期が珍しく感情的になってこの子を叱責していた。注意する側が気を付けなければ、パワハラだのモラハラだの言われてしまうこの時代に、手加減なしに繰り出される攻撃を黙って聞いていられなくて、
『ちょっと待てって。そんなに畳みかけられたら、パニックになっちゃうよ』
慌てて遮ったことがある。その時はしぶしぶ矛を収めた同期に、後でこっそりと、
『新人なんだからさ、もうちょっと大目に見てやれよ。厳しいこと言い過ぎたら辞めちゃうぜ』
と声をかけたら、
『役立たずは早く辞めた方が会社のためだ』
にべもない一言が返ってきた。
「あれえ……どうして……」
すべてのポケットを探り終えた彼女は床の上にしゃがみ込み、手にしていたビジネスバッグを逆さにする。中身がぶちまけられ、俺は転がっていくリップクリームを慌てて追いかけた。
「え、なんで。どうしてないの……」
泣きそうな声で、次はスーツケースを広げた。中身をかき回す。水色の下着が目に飛び込み、俺は「ちょっと待って!」と彼女を止めた。
「落ち着いて。瀬能さんさ、切符をどこにしまったか本当に覚えてないの」
俺の問いに、彼女がしゅんと肩をすぼめる。
「そんで、この中に切符を入れたの?」
改札を通っていく人が、大きく開いたスーツケースと彼女を比べるようにじろじろ見ていく。
「いいえ、ここにはないと思います……新幹線の中では開けていないので」
その答えを聞いて頭を抱えた。それなら、どうして広げてるんだ。
改札の向こうでは、困惑を通り越してイライラした様子の後輩たちが彼女を睨んでいる。
「ちょっと待ってて」
俺は改札へ走り、駅員をつかまえて事情を話した。年配の優しそうな駅員の取り計らいで、一区間分の切符代を払うことで許してもらった。これ、経費で落ちるかな。
「前田さん、予定押しちゃいますよ」
やっと俺と彼女が改札をくぐると、待ちくたびれた同僚たちが荷物を持ち直した。
「ごめんごめん、急ごう」
速足になった俺に、
「前田さん」
彼女が走り寄って、頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした」
よく見ると、うっすらと目尻に涙が溜まっている。
「いいよいいよ、そんな。俺もたまにやっちゃうし」
そう言って笑うと、彼女が目を丸くした。
「それより仕事仕事。頑張ろうな」
気を遣わずに済むようにそう声をかけると、彼女ははにかんだように笑った。眩しそうに俺を見る。
「……はい」
ドキッとした。結婚して以来、女子からこんな視線を投げかけられたことはない。久しぶりの感触に、一瞬だけめまいがした。
自分の手の内を隠しながら、お互いに一枚ずつカードを出し合っていくような、緊迫した男と女の駆け引きの世界。
ずいぶんと遠ざかっていた感覚が突然に蘇った気がして、俺は慌てて首を振った。
薬指に目をやる。けれども、そこに妻と誓いを交わした指輪はなかった。
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