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Portraits

 昭和〇年。まだ、戦争なんて海の向こうの出来事だと思っていた頃。俺とマチ子さんが出会ったのは、そんな普通の、何でもない夏の日の午後だった。

 カランカラン・・・
「いらっしゃいませ」
軽やかな音に続いて扉が開き、額の汗を花柄のハンカチで押さえながら一人の和装の女性が入ってきた。
「予約はしてないんだけど、今からお願いして宜しいかしら。お見合い写真を撮りたいんだけど」
「えぇ、別に構いませんよ」
とは言ったものの、俺の目の前にいるのは年の頃60代といった感じのご婦人、のみ。ん? 『お見合い写真』って、いったい誰の写真を撮るんだ? まさか・・・ 少しの沈黙と俺の勘繰るような視線に気づいてマチ子さんの叔母さんは俺の肩口を思いっきり叩いてから笑った。
「あら、嫌ねぇ。私なわけないじゃない」
「まぁ、ですよ、ねぇ」
 一旦外に出た叔母さんはしばらくして今度は一人の女性の手を無理矢理引きながら入ってきた。派手ではないけれど品のある顔立ち、艶やかな着物に身を包んだマチ子さん。俺はその姿に一瞬にして心を奪われてしまったが、その時のマチ子さんの表情は露骨に不機嫌そうだった。
「もう、絶対お見合いなんてしませんからね」
「はいはい、わかってますって」
「本当に写真撮るだけですからね」
「わかりました」
口を尖らせて早口で駄々をこねる幼さと着飾って大人びた外見とのアンバランスが何だか妙に可笑しく、思わず俺は吹き出してしまった。するとマチ子さんに思いっきり睨まれた。まずい。
「あ、それでは、スタジオは二階ですのでこちらへどうぞ」

 撮影の準備をしている間も椅子に座ったマチ子さんの機嫌はいっこうに良くなる様子はなかった。
「じゃあ、早速撮りましょうか」
俺の精一杯の作り笑顔にもマチ子さんはそっぽを向いたままである。さっき笑ってしまったことを相当怒っているのだろう。
「あの、お顔をこちらに向けてください。笑顔の方がきっといいお写真撮れますよ」
「そんな、楽しくもないのに笑えませんわ。それとも、あなたが何か面白いことでもして笑わせてくださるの?」
「いやぁ、僕、そういうのは苦手でして」
「でしたら私も愛想笑いは苦手なんで。諦めてください」
やれやれ。なかなか気の強いお嬢さんだ。赤ちゃんや子供相手なら人形やおもちゃでご機嫌をとったりもするのだが、相手は立派な大人の女性である。そういう訳にもいかない。でも、そこまで嫌がるなら何故きちんと振袖まで着込んでんだ? ここへ辿り着くまでに断るタイミングなんていくらでもあっただろうに。本当は途中までは乗り気だったんじゃないの? そうは思ったが、聞いてしまうとこれまた面倒なことになりかねない。
「それじゃあ一枚、撮影してみましょうか」
とにかくさっさと終わらせてしまおう。それに限る。
 ファインダーを覗きこみ、仕方なくそっぽを向いたままのマチ子さんの横顔にピントを合わせた。小さく尖った顎と細く色白なうなじから漂う色気に一瞬、ドキッとして指が止まった。改めてレンズ越しに見たマチ子さんは今まで撮影した誰よりも、間違いなく綺麗だった。
「それじゃあ、撮りますね。はい、チーズ!」
シャッターを切る瞬間、突然マチ子さんはレンズに向き直ると右人差し指で右目尻を思い切り下に引っ張りながら『あっかんベー』と舌を出した。
 へ? 予想外のマチ子さんの行動に呆気に取られている俺を見て、マチ子さんは思いっきり笑った。口元を手で隠すでもなく、子供のように大口を開けて手を叩きながら、顔をくしゃくしゃにして楽しそうに笑った。
「あー、可笑しい。じゃあ、本番に参りましょうか。どうせなら素敵に撮ってくださいね。でも、その写真はやっぱり使いませんけどね」

 受け取りは翌々日の夕方という叔母さんの話だったのだが、その日のお昼をちょっと過ぎた頃に白いブラウスにスカート姿のマチ子さんは一人で店にやってきた。
「いらっしゃいませ。あれ、今日はお一人ですか?」
「えぇ。写真、もう出来上がってます?」
「はい、もう、それはもちろん」
「じゃあ、私がいただいて帰りますね」
「あ、いや、それはいいですけど。あの、宜しいんですか?」
「いいんです。だって、これ、叔母様に渡しちゃったら無理矢理お見合いさせられるに決まってますから。私、それを阻止しに参りました」
「はぁ、なるほどね、そういうことですか」
 写真の中で、背筋を伸ばし凛とした気品のある顔で微笑むマチ子さんはそれはまるで映画スターのようだった。
「何じっと見てるんですか? 涎垂れてますよ」
「あ、ごめんなさい。いや、でも、よく撮れてるなぁ、と思って」
「モデルがいいですからね」
「俺の腕もほどほどにいいですから」
「そうなんですか?」
「それよりこの写真、本当に使わないんですか。なんかもったいないですよ。これなら誰が見たってすぐお付き合いしたいって、お嫁さんにしたいって思っちゃうんじゃないですか」
「そんな、お世辞なんて結構ですから」
「全然、お世辞じゃないですよ。本心ですって」
「からかわないでください」
 俺は全く取り付く島のないマチ子さんに思い切って言った。
「じゃあ、俺とお見合いしませんか?」
「え? あなたとですか?」
「こうやってお知り合いになれたのも何かの縁ですし。それに、そうすればせっかく撮ったお見合い写真も無駄にはならないじゃないですか。これって名案だと思いません?」
マチ子さんはちょっと考えるふりをしてから頷いた。
「おもしろそうですね。いいですよ。確かにせっかく撮ったんですから一回くらいは使ってあげないと可哀そうですからね」
こんなにもあっさりマチ子さんが承諾してくれるとは正直思ってはいなかった。てっきり相手にもされないと思っていたし。思い切って言ってみてよかった。
 それからマチ子さんは
「はい」
と俺に向かって手を差し出した。
「え? 何ですか?」
「だってお見合いですよ。あなたのお見合い写真」
あ、そうか。お見合いってことは俺の写真も必要になるんだ。いやいやいや、そんなの、俺持ってないし。
「あ、俺、実はそういうの撮ったことなくて。写真は撮影するの専門なんで」
「じゃ、撮りましょ」
「は?」
「だってここ、写真館ですよ。今から撮りましょ、あなたのお見合い写真」
 奥の居間でこれから昼寝でもしようかとゴロゴロしていたステテコ姿の親父を叩き起こした。それからタンスの中を引っ掻き回してやっと見つけた、親父が若かりし頃に着ていたクタクタですっかり年代物のスーツに着替えた。ネクタイなんてどれがいいのかわからないから一番手前の黒いやつを手にして急いで店に戻った。
 戻ってきた俺の格好を見てマチ子さんは必死に笑いをこらえていた。スーツの袖と裾の丈が明らかに足りていない。おそらく全く似合っていないと思われることは、センスのない俺にですら容易に想像がつく。
「これしかなくて、すみません」
「とってもお似合いですよ」
と言って顔を伏せてしまった。いや、それって完全に馬鹿にしているでしょ。
 初めて着たスーツ。生まれてこの方、ネクタイなんてしたことがない。だから、自分で結べるはずがない。
「貸してください」
マチ子さんは背伸びをし俺の首元にネクタイを回した。マチ子さんと向かい合いになって距離が近づくととってもいい匂いがした。俺は顔を天井に向けたまま、下を向くことができないでいた。鼓動が尋常じゃないくらい速く打ち始めていることに気づかれるんじゃないかと気が気ではなかった。
「それじゃあ、撮りますよ。もっと、笑ってくださーい」
 レンズの前に立った、引き攣りまくった表情の俺を見てマチ子さんは嬉しそうに言った。
「ほらほら、そんなんじゃせっかくの男前が台無しですよ。はい、笑って」
言われたってそんなに簡単に笑えるもんじゃないでしょ。この前の仕返しでもするかのように、マチ子さんは何だか楽しそうな様子だった。

 全く笑えない、笑えていない俺の写真を見てマチ子さんの笑いは止まらなかった。
「そんなに可笑しいですか? 俺の顔」
「いえ、そんなことないですよ」
どう考えたって絶対そんなことあるでしょ。
「それより今度の日曜日とか、如何ですか?」
「え、何がですか?」
「お見合いですよ。お見合いの日取りです」
「あぁ、そうですね。店は親父にお願いするんで僕はいいですけど、叔母様の予定を聞かないと。仲人お願いするんですよね」
「いえ、叔母はいいんですよ。二人っきりでお見合いしましょ」
「え、でも、それってお見合いじゃなくって、ひょっとしてデート、じゃないですか?」
「ま、世間的にはそうとも言いますけど、ね。ダメですか?」
マチ子さんはペロッと舌を出してからにっこりと微笑んだ。
「いや、むしろ願ったり叶ったりです。こちらこそ宜しくお願いします」

 

 強かった日差しもすっかり和らぎ、心地よい涼しい風が吹いてきた。縁側ではまだ幼い一人息子が遊び疲れて気持ち良さそうに寝息を立てている。額に浮いた汗を拭い、蹴飛ばされたタオルケットをそっと掛け直した。
 マチ子さん、ごめん。俺さ、まだしばらくはそっちには行けそうにないや。もうちょっとだけ、俺とこの子のこと、見守って欲しい。
 俺は、あの時こっそり現像しておいたマチ子さんの『あっかんべー』写真と、さっき届いたばかりの召集令状を二つ折りにして、そっとポケットに仕舞い込んだ。


ー 終 ー

 

 


 

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