私の介護メモ #49

介護は続くよどこまでも

介護の最高到達点は特別養護老人ホームかなって、思ってたのに、全然違っていた。

去年の初め頃はあんなに苦しくて苦しくて、
母の介護度が2から3になかなか上がらず、
区分変更(介護度の変更)に苦戦していた頃、
特老(特別養護老人ホーム)に入れることが
介護の最高到達点と思っていた。

でも、違うんだな。

特老に入っていても、退所を迫られる事もあると、なんとなく匂いで嗅ぎ取ってしまった。

ここ1ヶ月半母の様子が不穏だ。
体調のどこが悪いという訳ではなく、
暴れたり、大声を出して叫んだり、
攻撃的になっているため、
施設と提携している病院の精神科医とスタッフさんからの申し出で精神科への入院を
強く勧められた。

他の入所者さんに危害を加えたり、
母自身暴れたり突然立ち上がって転んだりしてはいけないのでという事らしい。

紹介された最初の病院は、市内とはいえ
車で1時間近くかかる場所。
入院費も今まで入院したところより遥かに高額で、びっくりして却下させて貰った。
母の年金では全く支払えない金額だったのだ。
施設も母の症状と経済状況など伝えたはずなのに。

さすがにその病院での面談説明を受けさせてもらったが、あまりに難題な入院費用に
思い悩んで施設にも、単身赴任中の旦那にも、「無理!」と訴えた。

それでも早急に入院を勧められるのは、
精神科医の先生とスタッフさんとカンファレンスしたところ、母は「鬱病」であろうと
診断されたからだ。

うーむ、やっぱりか。

薄々気が付いてはいたが、やっぱりか。
母は裏表の激しい性格である。
表側では、穏やかで、華やかで、お淑やかで、
でも裏側は、激しく激昂したり、陰湿で人をネチネチ罵倒し、激しさに任せて酔っ払って自転車を田んぼになげたり、自分より弱い人間を攻撃したり。
父が亡くなる前、ぼそっと
「あいつ(母)酷いよな。お前を(子供の頃)、
ものさしで叩いていたよな」って言っていた。

私は小学校低学年で、勉強するとき、母のそばで竹のものさしを持って、間違えるとそれで、べしっと叩いてきた。

ヒステリックに怒鳴りながら、酷く叩かれたこと、泣きながら謝っていたことを思い出す。

小さかったから、知らなかった。
親って、勉強を教えるとき、答えが間違っていても、ものさしで叩いたりしないんだな。

酷い暴力を受けたって思っていなかった。

小さい頃から鍵っ子だったけど、
両親共働きだったからだと思っていたけど、
それだけじゃなく、両親が仕事休んで、
二人で私を置いて遊びに行っていたことを
知らなかった。
知ったのは高校生くらいになってからだった。

そっか、それが普通と思っていたけど、
違っていたんだなと知ったのは、大人になって結婚して、子育てしから。

あれは、ネグレクトだったんだなと、
知る。

2、3歳くらいの頃から夜一人ぼっちは当たり前だったのは、そういう事だったんだな。

母の症状は鬱だよと、先生に言われ、
思い当たる節がある。

とにかく、早めの精神科の入院を勧められて、施設に精神科の入院施設を探してもらっている。

昨日、4日ぶりに母に面会してきた。
先週の金曜日はいつもより穏やかで普通だったのに、会っても、他人行儀で、
「あなたは、私の娘?」と聞いてくる。
そうだよ、娘だよ!私だよ。と話しても、
ずっと娘とは認識してもらえず、
会話が終始噛み合わないまま終わった。

それをスタッフさんも察知してくれたのか、
声をかけてくれた。

別れてから母はそのまま車椅子で移動しながら、私の名前を叫びながらフロアをぐるぐる回り出した。

昨日は終始、私を認識できずに、他人のまま、会話をしていた。

久々、
全く母は私を娘とは理解できなかった。
いや、ここまで終始認識出来なかったのは、
もしかしたら、初めてかもしれない。
いつもなら、しばらく話していたら私のことを思い出して認識するのに、
今回は終始ずっと他人行儀。
初めて会う人に対しての母独特の言葉遣いで、よそ行きの言葉と振る舞い。
私が見えなくなるとまたフロアを回り始め
私の名前を呼びながら移動していた。

様子はだいぶ前のように戻ってきたと話してくれていたのに。

まあ、本人がそれで普通なら、
それでいいかと思う。

近々、紹介された病院に施設のスタッフさんと共に診察に立ち会う予定。
小規模な入院施設もある認知症対応の精神科が比較的近くにあったらしく、そこが
費用面でも問題のないところなら、
入院、あるいは通院かな。

介護はどこまで行っても、いろいろ苦戦するもんなんですね。


#日記 #エッセイ #介護 #備忘録

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