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3. 自分を知り、”試す”ことができたのは「家族」だったから

2017年9月から1年弱参加してきたCiftを、この7月で旅立つことになった。

離れる前に、あらためて、どうして自分がCiftに加わり、11ヶ月の間でどんなことを感じ、なぜ今回旅立つことを決めたのか、簡単にまとめていきたいと思う。

1話「血が繋がらない家族」のおかげで生き延びてきた

2話 “思い込み”を取り払い、相手を立体的に見れば、愛おしくなる

「みんな感情の振り幅は一緒」

Ciftに入るまでどこかでそう思い込んでいた。だから、「こういう風に感じるって、どうして気づいてくれないのだろう?」「そういうことを言ったら傷つく人もいるだろうに、なぜ言えるのだろう」と、Ciftに限らず様々な場面で、腹が立ったり悲しくなることがたくさんあった。分かってもらえない、共有できないことが世の中にあると、頭では理解できても、心ではきちんと受け止められていなかった。

でも、Ciftに入ってから、周りのメンバーに何気無い会話をしているとき「繊細だね」「敏感だよね」と直接言われたり、私がCiftのLINEやFacebookのメッセンジャーグループで、人一倍、他の人の言葉を拾ったり、丁寧に返したりしていることに(私にとっては、そうすることがごく自然なリアクションだったものの)、「すごいよね」「やさしいよね」などと言われたりするなかで、「あ!私とみんなの感覚って違うんだ」と、はじめて腑に落ちて感じた。

何かを感じるポイントも、その感情の中身も深さも、自分とヒト(他者)とは違う。

その当たり前のようなことにようやく納得できたのは、40人という大人数と、深く、多くのものを共有しているからこそ、「違い」が見えやすかったことがひとつ。そして、胸襟を開いて素直に伝えあえる言葉があったことがもうひとつ、だろうと思う。

「家族になる」ことを目指している前提があるために、普通であればある程度の信頼関係が育まれているか、よほど気が合う人などでなければ、聞きにくいようなことでも、お互いあまり抵抗をもたずに話ができた。

TOKYO WORK DESIGN WEEKにCiftメンバーで登壇。このときにそれぞれが話した”Cift像”も平和観も、ひとりひとり違った。

そして、Ciftでは、みんなが本当に(いい意味で)バラバラだからこそ、違いを自分の「特性」としてポジティブに捉えることもできた。かつては、自分の感情の波が激しいことを「よくない」ことだと思い、「悟りを開きたい」(笑)とよく思っていたが、逆に、「感じられること」を活かした仕事や生き方をしていきたいと思えるようになったのも、Ciftのおかげだ。

自分のことを知るきっかけになったのは、「身体接触」もそうだ。

CiftメンバーのTちゃんは、「触れる」ことが「安心できる/したい場所・人」でのコミュニケーション方法だ。まるでネコか何かの動物のように、ふわふわと近づいて触れてくる。手でなでるように腕に触れ、ハグよりももっと親密な感じで抱きつき、顔に顔を接近させて頬にキスをしたり、足にも絡みつくように触れてくる。それが最初はとにかく苦手でたまらなかった。私自身は、パースナルスペース(「ここより近くに来ないで」という自分を守る距離感)の境界線が固く、誰かに触れたり触れられたりすることに基本的に抵抗感が強いからだ。

ある日、Tちゃんがとても落ち込むことがあって、目に涙を浮かべながら近づいてきた。具体的に何があったかは多くは語らず、私もあえて聞き出そうとはしなかった。でも、彼女にとって、触れたり触れられたりすることがエネルギーをチャージすると知っていたから、そのとき私は初めて、自分から積極的に彼女に触れた。そのときに自分が抱えていた仕事も横に置いて、彼女に寄り添いたいと思ったからだ。彼女が私にぴったりとくっついたり触れたりしてくることも、その時は違和感も抵抗感もまったく沸いてこなかった。

そのときの感覚から、ふと気づいた。私は、触れたり触れられたりすることが嫌だったんだじゃない。触れ合うことで相手と向き合うことを避けていたんだ、と…。自分の仕事を優先したい。自分のことで精一杯。自分のペースを乱されたくない。そういう感情が強くて、触れること以前に、おそらく顔を向き合わせて会話をすることさえも、億劫に感じていたのではないかと思う。

その時以来、彼女と触れられること/触れることを心地よく感じられるかどうかは、自分の心にゆとりがあるかどうかを測る、ひとつのバロメーターのようになった。

自分のキャラクター(性質)に気づいただけでなく、新しい自分を発見するような場面もあった。例えば「タメ口」。

礼儀作法にそこそこ厳しい家だったためか、敬語がベースになりやすかった私。祖父母ともいつの頃からか敬語で話をしていたし、中学や高校の同級生でさえ、普段そんなにコミュニケーションをとることがないと、無意識に敬語で話をしていた。長い時間を共にした前のシェアハウスのメンバーとも、心理的な距離は近くなっていっても、敬語でのコミュニケーションだけは変わらなかった。

それがCiftでは、私が入った時にはすでに、年齢関係なく、みんなタメ口で会話をしあう文化ができていた。最初はどきどきしながらも、年上のメンバーにタメ口で会話をしていくうち、このほうがずっと話しやすくて、フラットに接せられると気づいた。敬語で話しているときのほうが、「イイコ」になって、話す内容もその枠のなかにおさまってしまいやすい。それがタメ口になると、もっと素直に、もっと大胆に、心で思っていることを話せるように感じた。

Ciftでタメ口のコミュニケーションに慣れていくうち、気づけば私は徐々に、Cift以外の場所でもタメ口を使うことが増えていった。タメ口で話す時の心地良さを知り、タメ口でも大丈夫そうな人や場所を感知できるようになったからだと思う。逆に、年下の人からタメ口を使われることも、一層気にならなくなっていった。

身体接触についても、言葉遣いについても、振り返ってみると、Ciftという場は「トライアル」が許される場所だったのだと思う。ちょっとやそっとのことでは、「家族」という関係性は変わらないはずだから…。その安心感が、「試してみる」ことを容易にし、自分のことを知るチャンスをくれたように思う。

メンバーのなかでも特に密な時間を過ごした人たちと飲みに行った時の私。”ふざける”こと、日常に笑いをもつことを、教えてもらった。こんな風におちゃらけることも、大人になってからほとんどなくなっていた。

「あなたも私」と思えるくらい「自分」を開いて拡張させることを目指しているCiftだが、他者に自分を開くプロセスは、翻って自分自身を知ることにも繋がるのかもしれない。

(2018.7.30)

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