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「性」からの解放と「体」からの解放 〜naked撮影をしてみた②〜

2018年の目標"naked"を物理的にやってみた、年末のチャレンジ。

前稿でその経緯と「nudeではなくnaked」にこだわった点について書きましたが、本稿では、3つのコンセプトとそれぞれに関わる撮影後の感覚について、書きたいと思います。

1)「性」からの解放 ー 全裸でも"搾取"されない感覚

前回、性別を感じさせないような存在として刻まれたい、と書きましたが、この背景について、もう少し詳しく…

私は数年前から「クエスチョニング」というセクシュアリティを自称しています。自分のセクシュアリティが分からなかったり、迷っている状態を基本的には指しますが、私は「決めたくないし、一生分からない気がする」と思いながら、このセクシュアリティを選択しています。

詳しい背景は別の記事に譲りますが、男性の体というものへの抵抗感が強くあり、今も例えば男性を心理的に好きになっても、性的関係をもつことを想像すると恐怖心が湧いてくることは少なくありません。それは、男性というものがそもそも苦手なのか、親が厳しかったために「悪いこと」としてインプットされてしまっているからなのか、過去に軟禁状態やレイプ未遂などに遭ったトラウマのせいなのか…、自分でもわからないし、いろんな理由が複雑に絡み合っているようにも思います。

ただとにかく「性的欲求を満たすためのモノ」にはなりたくないという思いは強くあり、「男性だから/女性だから、この人を選んだ」という選び方を、自分もしたくないし、相手にもされたくないと思っています。あくまでも性別はその人の"要素"のひとつで、他に数多ある別の要素のほうを優先して見つめたいし、見つめられたい、と…。

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この「性の解放」に関しては、当初迷いもあったものの男性であるTsさんに撮ってもらったことが、結果としてよかったと感じています。私が全裸で、彼は服を着たまま(これも相談をしたうえで、着衣でお願いした)という状態でも、侵されない、搾取されない、という状況を経験できたこと、性的欲求を満たすための対象ではなく、一つのプロジェクトを遂行するための対等な関係性の感覚を、あの環境で経験できたことは、自分にとって新鮮かつエンパワーメントになった気がします。

そして、私も普段「女性らしく」振る舞ったり、女性性をある種の「武器」にするような時もあるなかで、女性であることの意識をも”脱いだ”時に湧いてくる、違う強さの感覚も味わえました。

2)「体」からの解放 ー キライな体に私の"歴史"は刻まれていた

私立の中学に進学した私は、1年強の寮生活で食生活も変わり、体重が激増。家族から「太ったね」と言われることが増え、それがとにかく嫌で、寮を出てからはダイエットを始めます。でも体重計の数字がどんどん減っていくのが次第にクセになり、ハンガーストライキ並みに食べなくなって、今度は親から「痩せすぎ」だと怒られようと「食べなさい」と注意されようと、止められなくなりました。一時期は身長157cmで体重が38kg台まで落ちていた記憶があります。

成長期と言われる時期に思いっきり体重を落とした影響で、生理も長いこと完全にストップしていたり(これも親に怒られて、しばらく婦人科に通院し、薬で強制的に起こしたり...)、女性らしい体には、ちゃんと発育しなかった感が否めません(汗)。

いわゆる拒食症になっていた当時も、標準体重になった今も、自分の体がずっと嫌いで、ずっとコンプレックスを感じてきました。人に見られることはもちろん、自分で自分の体を見つめるのも嫌だった...。

そんな体へのある種の"固執"からも解放されたいと思っていた今回。

Tsさんに写真を撮ってもらいながら、都度「こんな感じだよ〜」と見せてもらったのですが、写真という、鏡とも違う外からの視点で自分の全身を見たのは初めてで、素朴に「え、新鮮!」「おもしろ〜〜い!」というリアクションだらけになりました(笑)。特に後ろ姿の全身全裸を自分で見たときは、超新感覚でした(笑)!

そして、(1)の性別を越えた視点で撮ってもらったことも、大きかったように思います。体へのコンプレックスは、「女性らしい体とはこういうもの」「こういう女性の体が魅力的」という強いイメージがあるからこそ、湧いてくるもの。性別のラベルを外して「ただの体」を見ると、そこには「理想像」がなくて、比較するものも思い浮かばない。だから「私のカラダはこういうものなんだ、ふ〜ん」とすごくフラットに見つめられる感じがしました。同時に、体がとても物質的に見え、考えたり感じたりしてる「心」とは別の、ただの"容れ物"に思える感覚もありました。

一方、撮りはじめのときに照れ隠しで、「私ね、蒙古斑っぽいのが残ってるの!」と話したのをきっかけに、「この脇のホクロ、昔はなかったんだけど...」「ここにある傷は、昔好きだった人とこんなことがあって...」と体に紐づくストーリーがどんどん湧き起こってきました。

アトピーがちだった姉のことを思い出した背中の肌荒れ。亡き祖母に似ていると言われた手。幼い時に転んで鉛筆の芯が刺さった痕があった眉間。中学生の頃「大五郎みたい」とよく言われたおでこ。この間つまづいて擦りむいたばかりの膝...。

いろんな記憶がこの体には刻まれていて、これまでの人生を自分とともに歩んできてくれた唯一無二の体なんだ。

そうしみじみ感じました。そう思うと、少しだけ自分の体への愛おしさが湧いてきました。

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さて、最後の3つ目は「他者の意識からの解放」ですが、ここまで長文になったので、これはまた次稿で。

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