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受刑者の「彼ら」と私の間に境界はあるのか?(映画『プリズン・サークル』鑑賞録)

「こちら側」と「あちら側」のどこに境目があるのだろう?

日本の刑務所に初めてカメラを入れて撮影されたドキュメンタリー映画『プリズン・サークル』を観終えたときに、一番強く湧いていた感情だった。

同作は、受刑者同士の対話をベースに犯罪の原因を探り、更生を促す「TC(Therapeutic Community=回復共同体)」というプログラムを日本で唯一導入している、官民協働の新しい刑務所「島根あさひ社会復帰促進センター」を2年にわたって追っている。

TCのなかでは、いわゆるカウンセリングに近い様々なプログラムが「授業」のような形で実施されていく。

自分の幼少時代をふりかえってもらったり、自分と家族や友人との関係性を図式化して書かせたり、相反する自分の感情を、2つの「人格」にわけて、それぞれの「人」の立場から話をさせたり…。

当初は、語ることを躊躇ったり、うまく自分の感情を言葉にできない人も少なくないが、他の受刑者たちの言葉に呼応するように、「そういえば自分も…」と口を開いていく。

次第に打ち明けられていく話のなかで共通していたのは、みんな何かしらの「暴力」を受けてきたこと。体の暴力、言葉の暴力、無視されるという暴力…。

彼らが語った「暴力」は、程度の差はあれ、私の周りにも存在していて、…いや、私も自分で「暴力」をふるう側にも立ってきたように思う。

「暴力の連鎖」とはよく言われるが、連鎖するというよりも、まるでビリヤードの玉がバンバンぶつかり合うように、「加害」と「被害」の矢印がわからないぐらい、私たちは互いに影響を与え合って生きているのではないかと思う。

だからこそ、彼らが語った「気持ち」のうち8〜9割は、「あぁ、私も近い感情をもっている/もったことがある」と思うものだったし、

(残り1〜2割も、これまでにDVや依存症について、かじり学んできた内容から「そうだよね」って思うものか、「この言葉の裏に別の感情がありそう」と思うものだった)

彼らの対話に触れてゆけば触れてゆくほど、「彼ら」と「私」の境界は見えなくなっていった。むしろ彼らが、「本当は誰かに聞いて欲しかった気持ち」を、口にしていくほどに、見ている私まで、どこか心がほぐされるような気持ちも湧いた。

「彼ら」と「(今の)私」の大きな違いがあるとしたら、仕舞い込んだ感情を、それがタンクから溢れ出してしまうより前に、誰かに聞いてもらえる場や機会をもてたかどうか…だけかもしれない。(でも未来の自分が彼らの側にいく可能性も決して小さくないと思う。)

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まるで彼らのサークルのなかに自分も座っているかのような気持ちで見ていたから、時折、刑務所の「非人間的」なシーンが挟み込まれると、バンっと突き放されるような衝撃も大きかった。(最後の最後に出てきた、そんな隔絶のワンシーンには、思わず涙が溢れた。)

TCのようなプログラムは、アメリカなどでは広がっているものの、日本では、約4万人の受刑者がいるうち、たった40人ほどしか受けられていないという。

でも、自己肯定感を踏みにじられ、感情を消し去ってきた彼らに、さらに人間性を否定するような刑務作業の「罰」を上塗りしても、犯罪を犯してしまった原因を見つめたり、謝罪の念を心から抱いたりすることは、ないんじゃないか…。彼らに本当に必要なのは、自分で自分のことを見つめ、受け止め、そのうえで、他者の視点や感情を想像する”心の余白”を作ることなんじゃないかと、TCの取り組みを見ていて、強く思った。

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本当に一つ一つのシーンで、考えること、感じることがたくさんあって、それを書き尽くそうと思うと、支離滅裂な文章になりそうなので、ここで止めておきます(笑)。もう、あとは、とにかく見て欲しい。私の標準化した言葉より、彼らの生の言葉のほうが、何倍も何十倍も、伝える力があるはず。

末筆ながら、取材許可までに6年、撮影に2年、その後の編集作業も様々な制約があるなかでの作業で、想像しきれないほどの「産みの苦しみ」があったであろう本作を、こうして社会に届けてくれた坂上監督&製作者のみなさんに、心からの感謝と敬意をこめて。

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