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「みっともなくない」ためのアクセサリーからの卒業

「みっともない」

思い返すと、この言葉を母からたくさん言われてきた。

「貧乏ゆすりするのはみっともないからやめなさい」「靴が汚いのはみっともないからこまめに買い換えなさい」「賞味期限が切れたものが冷蔵庫に入っているなんてみっともないからすぐ捨てなさい」「婚約者でもないのに恋人が家に泊まっているなんてみっともない。恥ずかしいと思いなさい。」

もちろん中には、「礼儀作法」として直されてよかったと思うこともあるけど、「みっともない」というワードを浴び続けるなかで、「私はこのままでは社会において認められない存在である」という感覚も植え付けられていったような気がする。

なかでも長らく"縛られ"てきたのが、「歳をとったときに、安物のアクセサリーを身につけるのはみっともない。ちゃんと高価なものを持っておきなさい」という言葉。そして母や祖母の「本物」のアクセサリーを譲り渡された。

母と絶縁状態になってからも、引っ越すたび使わないものを処分していっても、それらのアクセサリーたちだけは持ち続けてきた。ほぼ100%使わないにもかかわらず、どこかで母の「持っておかないとみっともない」という言葉がリフレインして、手放せなかった。

自分が好きなわけでもないのに、先が見えない未来のために持ち続けるそのアクセサリーたちは、目に入るたび、私をどんよりとした気分にさせた。

*

高価な宝石に対しては、もう一つ「しこり」がある。

母は父と別居するようになってから、何かと父に宝石を買ってもらいなさいと言ってきた。

「いざというときにお金に換えられるから。」

それが母が宝石を選ぶ理由だった。

二十歳やら大学卒業やらで、理由をつけて買ってもらった高価なアクセサリーは2つある。でも家族が壊れた"償い"のようなそのアクセサリーたちは、全然嬉しくなかった。

「私が欲しいのはこれじゃない。こんなもの欲しくない」

心の中で何度も叫ぶのとは裏腹に、「ありがとうございます」と、たぶん笑顔で受け取ったと思う。喜ぶフリもしたかもしれない。

でもこのアクセサリーは、私が身に着けるためのものじゃない。何かのときに”お金にする”ためのものだから…。

私が身に着けたいものでもない。見るたびに、あの頃の孤独で悲しい記憶がくっついてくるから…。

*

コロナ禍で、バックパックとスーツケース生活を始めたとき、普段頻繁に使うアクセサリー以外は、ジュエリーボックスに入れてレンタル倉庫に預けた。そして約1年後の今夏、石垣島にしばし腰を落ち着けることを決めて、いくつかの荷物をレンタル倉庫から取り寄せたとき、そのジュエリーボックスも手元に戻ってきた。

ひさしぶりに開けたボックスの中に並ぶ、”使われずに待ち続けている”アクセサリーたちを眺めたとき、ものすごく苦しい気持ちになった。

かつて以上に、この宝石たちの出番は遠のいていると思う。それでも私は、この子たちを携え続けるのか…?

フリーになって3年。石垣島に移住しても、ちゃんと自分で必要なお金を稼げている。母からすればいろんなことが”みっともない”かもしれないけど、私は私の生き方でちゃんと生きれてる。

そして、母のあの言葉を覆すようなたくさんのカッコイイ人たちを、私は知っている。高価なものを身につけているかどうかより、大切なのは、その人の価値観や生き様が伝わってくる格好かどうか、その人自身が好きだったり心地良かったりする装いかどうかだと、私はたくさんの人から教わってきた。

新しいものを取っ替え引っ替え買い換えていくことよりも、自分の手元にあるものを修理をして命を長く紡いでいく人たちのかっこよさに、私はたくさん触れさせてもらってきた。

何の愛着もない高価な宝石よりも、大事な友人たちから贈られたものや、思い出が詰まったアクセサリーたちのほうが、私のことを何倍も”守って”くれることも、今の私は十二分に知っている。

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(「思い出」が詰まった私にとって大事なアクセサリーたち(一部))

そして何より、「いざというときにお金に替えるための宝石」よりも、「いざというときに助けを求められる人たち」の存在を、私は人生で”集めて”いきたいと思い続けてきたし、少なからずそういう関係性を育んでこられたと思う。

きっともう、大丈夫。

母の「みっともない」の基準じゃなくて、私の「かっこいい」「いとおしい」の基準で、私は私の人生を築けるはず。

*

アクセサリーたちと「お別れ」をする覚悟がついた一方で、中には祖母から母へ、母から私へ”繋がって”きたアクセサリーもあって、それをただ売り飛ばしてお金に替えるのは、また違う気がする・・・・・・

そうだ!リメイクしよう!!

いくつかあるなかでも、もっとも豪勢すぎて、私の今後の人生で身に着ける機会がまったく想像つかない指輪を、友人のジュエリーデザイナー・杉原賢に相談してネックレスにリメイクしてもらうことに。(普段は、1から指輪を作ることをやっていて、リメイクは表立ってやっていないから、わがままなお願いだったけど…汗)

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「華奢な感じが好き」「普段使いしやすくしてほしい」などちょこちょこ要望を伝えて・・・

つい先日、生まれ変わって、手元に帰ってきました…!!

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かわいい…!!全然違う!!

これなら私も使える(涙)!!!使いたい(涙涙)!!!

ネックレスの見た目の可愛さや使いやすさはもちろんのこと、私にとってもう一つ嬉しかったのは、賢にお願いできたこと…。

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私がかつて映画配給会社ユナイテッドピープルに勤めていたとき、はじめて「この作品を買い付けたいです!」とボスにお願いしたのが、アメリカの同性婚裁判を追ったドキュメンタリー映画『ジェンダー・マリアージュ』だった。

その配給宣伝費用をクラウドファンディングしたとき、表参道のジュエリーブランド「SORA」さんが「上映会権」のリターンで支援してくれた。SORAの担当者のS.OさんとR.Sさんは、想い熱く上映会を開催してくださって、以降、ご飯をご一緒するぐらい仲良しになった。

そしてS.Oさんからある日、「SORAをもうすぐ卒業して、多様なカップルのための指輪を創ろうとしている人がいるから、ぜひ紹介したい」と繋いでもらったのが賢だった。

つまり、もし私が『ジェンダー・マリアージュ』を買い付けていなければ、さらに言えば、もし私がセクシュアリティに関する発信をしていなければ、賢とは出会っていなかったかもしれない。

翻せば、「私が私らしく生きてきた先に出会った一人」なのだ。その賢にリメイクしてもらえたことは、私の"新たな一歩"をさらに後押ししてもらえるような感覚がした。

曖昧な「世間の目」にふりまわされなくても、私は私の生き方でちゃんと、私にとって大切な人に出会えてる。私にとって”豊かな”時間に恵まれてる。これでいい。これがいい。そう強く思える。

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リメイクしてもらったのはこの一つだけなのに、不思議とジュエリーボックスの中に残っている他の「ちゃんとしたアクセサリー」たちを見ても、モヤモヤしない。

残りの子たちをどうするかはまだ分からないけど、また新しい感覚の中で、自分自身の選択をしていこうと思う。周囲から見て「みっともなくないか」じゃなくて、私が身につけたいか、私らしくあれるかどうかで…。

これまで私にとって「重荷」だった指輪が、これからはきっと、"私が私らしく選択した証”としての「お守り」になる。

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