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奄美諸島の奴隷ヤンチュ

※ この文章はYouTubeで無料で視聴できます。

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ヤンチュという奴隷が昭和の時代まで存在していたことをご存知ですか。

奄美の債務奴隷をヤンチュといい、意味は家人という意味です。

徳之島ではチケベンやキネ、ヤッテと呼ばれ、沖永良部島ではニザ、与論島や喜界島ではンダ、沖縄本土ではンザと呼ばれました。

幕末期には奄美の人口の2〜3割がヤンチュだったと言われています。

今回は昭和初期まで実在したヤンチュの実態をご紹介したいと思います。

【ヤンチュの起源】

ヤンチュの起源に関する明確な記録は残っていませんが、「李朝実録」という書物の中にこんな記述が残されています。

「1450年トカラ列島のガジャ島(鹿児島県)に4人の朝鮮人が漂着した、破船して岸に登った彼らはヤッコとされた。このうち2人を薩摩人が連れ去りヤッコとした、残りの2人も大島の笠利(現在は奄美市に合併された)に連れて行かれヤッコとなった」

この記録が「李朝実録」に載っていることから、この時代にはすでにヤッコ制度、つまりヤンチュが存在していたことがわかります。

ちなみにこの4人はのちに当時の琉球王の弟が買い取り朝鮮に送り届けたことがわかっています。

中世まで奄美は琉球王国の一員として海を舞台に中国や大和などと交易する海の民でした。1609年琉球王国から分離され、薩摩藩直轄地になりました 。そして1623年に34か条の「大島置目之条々」が発布され支配体制を確立、ヤンチュを禁止し中間搾取を排除しました。

この頃の薩摩藩は奄美に対して自立農家の育成を目標に掲げ、ヤンチュ制度を廃止する方向に動いていました。

しかし奄美でとれる黒糖が大阪市場で高値がつくことに気づき、黒糖を財政改革の根本と位置づけ、不公平な搾取が始まりました。

これによりヤンチュという身分制度が拡大していきます。

【換糖上納】

まず薩摩藩は上納する品を米から砂糖に代え、その他の食料や生活用品は藩が高値で島民に販売しました。そして次に島の役人や豪農層を優遇することで 島民が島民を支配するシステムを強化しました。

規定量を上納できない島民は、自らの体を豪農に売ってヤンチュに転落するしか道はなく、その結果豪農たちはますます富を拡大していき、貧富の差が歴然となりました。

薩摩藩は砂糖を増産するため、上納できずに転落した農民を衆達(しゅうた)と呼ばれる豪農に吸収させ、彼らの大規模農業による増産を期待しました。

【生活】

実際のヤンチュの生活はというと住居は家主の屋敷内が一般的でしたが、ヤンチュが多いと掘っ建て小屋を建てることもありました。

食事はサツマイモや木ノ実粥、はしょうという多年草を海水で味付けしたものなどを食べていました。

正月やお盆などの折り目には各自に白米を支給した家主もいたそうです。当時はヤンチュに限らず白米のご飯は滅多に口にできない貴重なものでした。

【労働】

ヤンチュの労働は日中はきびの手入れやサツマイモの植え付けなどの農作業をし、製糖時期になるとタルガーと呼ばれる砂糖を入れるタルを作ったり、砂糖の運搬にせいをだしました。

女ヤンチュは畑仕事のほか、薪取りや炊事機織りなどをしました。

ヤンチュの多いところでは「主取り」といって現場監督を担うヤンチュもおり、主取りになって数年真面目に働くと無償でヤンチュの身分を解き、一家をもたせたといいます。

また相当信用のあるヤンチュ夫婦には一家を持たせ、さらにクワや鎌を支給し畑の大きさに対して砂糖何斤と請け負わせるケースもあったようで、請負量より多く作れたものは自分たちのものにできました。

性生活も気になるところですが男女交際は自由で、夫婦と決めて子供がいても度々夫を替え妻を替えていたようです。

ヤンチュ同士の間に生まれた子供は終生ヤンチュの身分のままで、これがヤンチュ増加の一因であるとも言われています。

【黒糖独占】

結果的に薩摩藩は奄美の黒糖収奪で赤字財政から立ち直り、後の西南戦争の軍資金にも当てられたそうです。

明治に入り短期間に猛烈なスピードで理想国家の改革が打ち出されました、しかし旧徳川家の財政基盤はきわめてもろく、税収の10倍近い歳出に頭を抱えていました。

そんな中、西郷隆盛は新政府に奄美の黒糖利権を奪われるのを恐れ、大島商社という会社を作り、鹿児島県が黒糖を独占する仕組みを作りました。

それに反対する勢力は西南戦争へ従軍させた記録も残っています。

【解放運動】

解放運動は明治5年の人身売買禁止令が発令されてからじわじわと始まり、

明治8年には勝手売買運動も始まり、明治9年には島民と大島商社の紛争が激化し、明治11年ついに大島商社が解体されました。

引き続きヤンチュ解放運動が起こる中、本土から砂糖商社が相次いで奄美に参入し、一方的な契約の元で島民の負債が増加しました。

明治20年、県議会では「大島郡 経済分別に関する議案」が可決されました、これはつまり奄美切り捨て政策です。

時代が変わり昭和15年、可決からおよそ53年が経ち、ようやく「大島郡 経済分別に関する議案」が廃止されました。

文献に現れる最後のヤンチュは昭和30年代前半、大島郡に60代の男性のヤンチュがいたことがわかっています。

薩摩藩が明治維新の偉業を成し遂げられたのは奄美島民の犠牲があったからであり、こうした犠牲の上で近代日本が実現したことを私たちは忘れてはいけません。

いかがでしたか?ヤンチュという言葉を初めて聞いた方も多かったのではないでしょうか、さらに深く知りたい方は名越護さんの著書「奄美の債務奴隷ヤンチュ」という本も読んでみてくださいね。

今回参考にした史料は下記に記載してあります。

最後までご覧頂きありがとうございました。

〜参考史料〜

奄美の債務奴隷ヤンチュ 名越護著

奄美諸島の砂糖政策と倒幕資金 先田光演著

奄美戦後史 鹿児島県地方自治研究所


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