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ぼくの好きな女の子

 ぼくにはじめてカメラをくれたのは、父が務めている会社の社長の息子である。
 玩具のようなカメラだが、後で調べてみたら当時その適当な描写力が却って珍しがられ、ブームを巻き起こしたことが判った。「coldpod」というカメラだった。会社を興した最大手の複合企業、上条グループの最高経営責任者が、カメラ好きの長男の為に発売したそうだ。
 会社そのものの名もカメラの名も、デザインもその長男が考えたらしい。そのカメラは人気があったにも拘らず、たった一年で販売を中止したという。
 そのカメラをきっかけに、ぼくは写真を撮る面白さに嵌まり込んだ。
 カメラをくれたひととはその時会ったきりだが、食事中にいきなり眠り込んだりする変なひとだった。女のひとと遊びまくることで有名だった。
 はじめのうちは貰ったカメラで目にするものを片っ端から写していたが、ある時、道端で猫の屍体を撮って以来、腐敗するものを写すようになった。父親がカメラ関係を扱う会社に勤めていたので、ぼくが嬉々として写真を撮っているのを見て、新製品をくれるようになった。
 だからぼくの部屋には山のようにカメラがある。当然のことながら、父はぼくが何を「嬉々として」撮影しているのかは知らなかった。
 腐ったものなどそうそう転がっていないが、夕飯の残りを部屋に持ち込みその写真を撮り、毎日それを撮っていたら当然のことだが腐っていった。それが面白くて、いまだにそうやって写真を撮っている。
 近所に今井花子という、今時珍しい名前の女の子が住んで居た。可愛らしく、活発で、皆から好かれていた。近所なので幼稚園も小学校もずっと一緒だった。 彼女はまったくぼくの存在に気づいていなかった。だから、中学に進学して同じクラスになった時はすごく嬉しかった。しかも名簿順に並んだ席の隣である。
 話し掛けることなど出来なかったが、向こうから親しく話し掛けてきた。彼女が語りかける言葉の半分も答えることすら出来なかったけれど、ぼくの家がすぐ近くだと知ると、一緒に帰るようになった。
 或る日、うちに寄ってかない? と云われた時は聞き間違いかと思った。部屋に上がらせてもらうと、彼女といつも一緒に居る男が立っていた。父親ではないことを知ってはいたが、何者であるかはさっぱり判らなかったので、このひとは誰なのかと訊いたら、ふたりとも硬直していた。彼女は親戚のお兄さんだと答えた。
 なんというか、実に不気味なひとで、常に膝を抱えている。
 聞いてみると、彼女ら(花子は双子だった)を育てたのはその「親戚のお兄さん」とのことである。一度、彼女の兄である太郎に連れられて、三人だけで話したことがあった。
 彼女のことが心配らしく、「花子のことをどう思ってる訳」と訊かれ、正直に好きだと答えたら、彼も太郎も頭を抱えていた。何故そんなに困るのか理解に苦しんだ。
 ぼくが写真が好きだということで、クルガワチという変わった名の男性に紹介された。
 女性的な外見からは想像もつかないような低い声をしている。ぼくを見るなり、「へえ、ほんとだ。ミナオに雰囲気が似てるなあ」と彼は云った。ミナオというのは、彼女の「親戚のお兄さん」のことである。
 あんな妖怪みたいなひとに似ているのか、と思ったら、暗い気分になった。
「井崎信也君だったっけ、腐ったもんの写真撮るのが好きなんだって?」と云われ、そうですと答えたら、「ゴミとか屍体とか好んで撮るひとは多いけど、そういう写真家から影響受けたの」と訊いてきた。
 ぼくはものを写すことが好きなだけで、他人の撮ったものにはまったく興味がなかったから、違いますと答えた。
 ふーん、と云って、「いつからそういうものを撮るようになったの?」と不思議そうに彼は云った。
 ぼくは父の務めている会社の社長の息子さんから小さい頃にカメラをもらって、自然に撮るようになった、と答えた。すると、彼の隣で膝を抱えていたミナオさんが「社長の息子ともなると気前がいいなあ」と笑った。
 写真を見せてくれと云われ、鞄からファイルを出して渡した。クルガワチさんは「あー、ひとつのもんが腐ってく様子を毎日撮ってる訳か」と云いながら、丹念に写真を見ていった。
 これはridneaか、とか、moilね 、はあ、coldpodまで持ってんのか、と呟いていた。プリントを見ただけで判るものなのか、と感心した。
 全部見終わってから、「なんでcoldoilのカメラばっかなの」と訊ねられ、父がそこで働いていることを伝えた。クルガワチさんは笑って、「あの問題息子を抱えたおっさんの会社かあ。まあ、あそこは上条系列だから、潰れたりはしねえだろうけどな」子供の頃に貰ったってことは、そん時はまともだったのか……、と 呟いた。
「こういうものが腐ってく様子を撮ったシーンが出てくる映画があるから、見てみなよ」と彼は云った。
 クルガワチさんの勧めた『ZOO』という映画を観てみた。ネットでは配信されておらず、東六区図書センターまで借りに行った。此処へ来るのははじめてである。旧市の近くで物騒だと聞いていたし、用もなかったからだ。
 コンピューターの並んだブースで検索したらちゃんとあった。
 何故かすべてのコンピューターがマッキントッシュのものである。「試写」「貸し出し」の貸し出しの方を選択すると「カードを挿入して下さい」という文字が現れた。
 受附に行くと、長い髪の痩せた背の高い青年がカウンターに置かれた用紙に極端に目を近づけて、ボールペンで頭を掻きながら溜め息をついていた。
 あの、と声を掛けると、弾かれたように顔を上げた。映画のデータを借りたいんですけど、と云ったら、「そちらにあるパソコン画面のアンケートに記入して下さい」と、身成りに似合わない丁寧な口振りで答えた。
 此処を何で知ったかとか、趣味、食べ物の好き嫌い、動物が好きか、好きなサイトは、など細々したした質問にひとつひとつ書き込んでいって、確定と書かれた処をクリックすると、「IDカードはお持ちですか」と云われ、財布から出して渡した。
「入会金は千円になります、データ、CD、DVDなどの貸し出しはすべて三百円です」
 料金を支払うと、普通のカードよりかなり薄っぺらい白いカードを渡された。
 パソコンブースに戻り『ZOO』の貸し出しをクリックして、コンピューターの横の機械にカードを入れた。「ありがとうございました、カードを受附へ提出して下さい」という画面になり、カードが出てきた。
 家に帰って観てみると、動物園で働く双子の青年が妻を同時に事故で喪い、彼女らを車で跳ねた女性はその事故で片足を切断することになってしまう。ふたりの青年は何故かその女性と深く関わるようになり、動物の屍骸の腐敗してゆく過程を撮影することに夢中になってゆく、という奇妙な映画だった。
 死んだ縞馬が腐ってゆく様子が早廻しのように映し出される。体内にガスが溜まって軀が膨れ、蛆が湧き、萎んでいって骨になる。その美しい様に魅了され、 そこだけ何度も観た。
 学校で花子に、「クルガワチさんが勧めてくれた映画を観たよ」と云ったら、どうだった? と訊かれ、「すごくよかったけど、君は観ない方がいいと思う」と答えた。
 あの映画はかなりエロチックで、男性の全裸のシーンもあったからだ。ミナオにーちゃんも花子は観るなって云ってた、と彼女はつまらなそうに呟いた。
「クルガワチのおじさんのこと、気に入った?」と訊いてきたので、いいひとだね、と答えると、ミナオにーちゃんと同い年なんだよという言葉に吃驚してしまった。クルガワチさんは背も低く女のような顔立ちをしてはいたが、三十半ばくらいに見えた。
 ミナオさんはどう見ても大学生くらいにしか思えなかったのである。年を取らない病気なのだろうか。

 或る日、不意に思い立ってカメラをくれた社長の息子、山田一要に会いに行くことにした。父にそのことを伝えると、会社に電話して住所を調べてくれた。
 日曜日だったので、中央区の方まで行くと電車が鮨詰め状態になった。彼が住んで居るのは西地区の高層アパートである。十一階の部屋の前で、インターホンを押していいものかどうか躊躇った。表札が掛かっていないし、連絡もしていなかったことを思い出したのだ。
 思い切ってボタンを押すと、はい、という声が返ってきた。此方に山田一要さんはいらっしゃいますか、と云ったら、暫くしてドアが開いた。痩せた目つきの悪い北欧人のような銀髪の青年が、「なんの用」とぶっきらぼうに云った。
 自分は井崎信也といいまして、父がそちらの会社に務めていて、子供の頃に一要さんからカメラを戴いたので……、としどろもどろになって説明すると、「そんなことあったっけ」と呟いていた。ということはこのひとが社長の息子なのか、と思った。
 子供の頃の五、六年前の記憶だから曖昧だったけれど、腺病質な感じではあったもののこんなに人相は悪くなかった。
 彼は肩を覆うくらい長い髪をかきあげながら、「まあいいや。這入ってよ」とぼくを部屋に招き入れた。髪の毛は銀髪だが、顔立ちは何処からどう見ても東洋人である。
 ソファーに腰を降ろし煙草に火を点けると、「どんなカメラだった?」と訊いてきた。リュックからケースに入ったcoldpodを出して渡した。「はあ、古いのに随分きれいだねえ。使ってないの」と云うので、貰って以来ずっと使ってます、と答えたら、「子供だったらすぐ壊しそうなもんだけど、几帳面な性格なんだ 」と笑った。
 笑うとそんなに恐い顔ではなくなった。撮ったものを見てもいいかと訊かれ、どうぞと答えると、そんな丁寧な言葉遣いしなくてもいいよ、と笑った。が、座れともなんとも云わないのでぼくはソファーの横でずっと突っ立っていた。
 このカメラは実に単純な仕組みで、パワースイッチは上部にあり、横にスライドさせて入り切りさせる。撮影する時は裏側の液晶の横のボタンというか平たいバーをやはりスライドさせる。recとplayしかない。レンズも25ミリの単焦点で、横にあるスイッチでnomalとmacroを選択出来るが、たいした差はないように思えた。
 此処の会社はコンパクトカメラしか出していないが、何故かどのカメラにもファインダーがついている。だからどうしてもモニターが小さくなってしまうので、一部のカメラ好きにしか人気がない。
 一要さんは煙草を喫いながらモニターを見て、くすくす笑っている。「子供がこんな写真ばっか撮るのってちょっと問題があるなあ。マモルさんに紹介しようかな」一度、女殺してこういう写真撮ってみようかな、と恐ろしいことを呟いた。
 ぼくの方を見遣って、「なんでいつまでも突っ立ってるの、座れば」と云ってソファーをぽんぽんと叩いた。その反対側にはギターが置かれている。
 隣に腰掛けたぼくにケースに収めたカメラを返し、「こればっかで写真撮ってるの?」と訊ねられ、父が新製品が出ると必ずくれるので色々使っています、とリュックから一番よく使っているカメラを出した。それを手にしてケースから出すと、「ああ、D2ね。これは珍しくマニア以外にも受けたなあ」と、くすくす笑いながら reviewスイッチを押した。
「やっぱ腐ってく過程ばっかだ。なんでこんなの好んで撮るの」と訊いてきた。最初の印象と違って随分無邪気なひとだった。ものが変化していくのが面白いんです、と答えたら、「だったらさあ、鉢植えに種でも撒いて育つ様子を撮ったらどう」と云った。そう云われてみれば、そういうのを撮るのも面白いかも知れない。
 幾つなの? と訊ねられ、十二才ですと答えると、「好きな娘とか居ないの」と訊いてきた。居ると答えたら、「その娘撮ればいいじゃない、君くらいの年頃ならどんどん変化してくよ」と彼は云った。
 よく考えてみると、人物にカメラを向けたことがなかったので、花子を撮ろうとは思わなかった。今度撮ってみます、と云うと、「撮ったら見せてよ。幾らなんでも中学生に手え出したりしないから」と笑った。
 そういえば、このひとは女癖が悪いことで有名だったな、とぼんやり考えていたら、背の高い男のひとが部屋に這入ってきた。
 一要さんは立ち上がってすたすたとその男の傍へ行き、何を思ったのかいきなり蹴り飛ばした。泥棒かな、と思ったら、「帰ってくるなりひとのことを蹴りつけるな」と男は怒鳴って、持っていた鞄で彼を張り飛ばした。取っ組み合いの喧嘩になるのではないかと心配して眺めていたら、一要さんは自分より上背のある男の首に腕を廻して口づけていた。
 ふたりが何をしているのか判らず混乱していたら、一要さんは糸の切れた操り人形のように仆れてしまった。男は蹲るように床にへたり込んでいる彼に鞄を叩きつけ、流しで口を漱いでいた。水だけでは満足がいかなかったらしく、流し台の上にあったウイスキーをグラスに注いで、更に口を漱ぎ、「なんで毎回舌まで入れてくるんだよ、あの変態が」と苛々した様子で煙草に火を点けた。
 そこでやっとぼくの存在に気づいたらしく、「こんな子供にまで手を出すようになったのか。しかも男……」と顔を覆ってしまった。恐るおそる近づいて、どなたですか、と訊ねた。
「此処に住んでるもんだけど」彼はうんざりしたような口ぶりで、ぼくの質問に答えた。
 男はコシマコウジといって、本人の言葉に依ると「売れない役者」らしい。そして、一要さんは勝手に居座っているとのことだ。
 かなり迷惑そうにしているので、どうして追い出さないのかと訊ねたら、
「追い出したよ。もう数えきれないくらい追い出したし、錠前も五回くらい換えた。どうやって開けるのか知らないけど、帰ってくると呑気にソファーでギター弾いてるんだよ。一度、大枚叩いて、絶対に他人が開けることが出来ないっていうのにしたらドアごと取り外して這入り込んでて、もう錠前換えるのやめたけどさ」
 と彼は項垂れて云った。
 社長の息子がそんなことをするとは思えなかったので、あのひとは本当に山田一要さんなのかと訊いてみたら、驚いたような顔をして、「知り合いじゃなかったの?」と訊き返してきた。
 コシマというひとが云うには、玄関で仆れたままの青年は慥かに山田一要で、父親に引きとってくれと頼んでも、「申し訳ないが、息子の好きなようにさせてやってくれ」と逆に懇願されたらしい。別に同性愛者でも異常者でもなく、コシマさん以外の人間には普通に振る舞うとのことである。
 床に横たわったままの一要さんを指して、あのままにしておいてもいいのかと訊ねたら、「寝てるだけだからいいよ」とコシマさんはあっさり答えた。そういえば昔、食事の席でもいきなり眠り込んだのを思い出した。病気なのだろうか。
「飯喰ってく?」と云われ、時計を見ると既に七時を廻っていた。此処を訪ねたのは夕方だったが、もうそんな時間になっていたのかと少し驚いた。断ると、「遠慮しなくていいよ、どうせあいつが迷惑掛けただろうし」と云って立ち上がり、仆れたままの一要さんを揺さぶって起こしに掛かった。なんだかよく判らなかったが、家に電話して社長の息子さんの処で夕食をご馳走してもらうと母に伝えた。
 一要さんは怠そうに半身を起こして、小島さんに凭れ掛かった。
「晩飯にするけど、おれが作るか、おまえが作るか、外で喰うか、いつもの垣井原にするか決めろ」
 と云われて、一要さんはジーパンのポケットから携帯電話を取り出し何処かへ掛けていた。垣井原というのは、レストラン並みの食事を提供することで知られている宅配専門店である。味に拘り抜いているだけあって値段は張るが、著名人がよく利用しているらしい。
 溜め息をつきながら此方へ戻ってきたコシマさんは、「あいつに何かされなかった?」と心配そうに訊ねてきた。親切に応対してくれたと云おうとしたら、一要さんが彼の後頭部に携帯電話を投げつけた。ぼくの写真を見て問題があるのではないか、と云っていたが、このひとの方が余程問題があると思う。
 ケータリングの食事が来るまで、一要さんはぼくにカメラのことを色々教えてくれた。
 この国ではじめて一眼レフを販売したのはペンタックスという会社で、当時は普通のサラリーマンでは手が出ないような価格だったとか、そのカメラは今と違って上からファインダーを覗くのだとか、レンズが交換出来るスクリューマウントを採用し、そのKマウントというレンズは現在流通しているデジタルカメラにも使用出来るという、専門的なことまで説明してくれた。
「へえ、音楽だけじゃなくてカメラにそんなに詳しいとは知らなかったな」と云うコシマさんを蹴り飛ばしてはいたが。
 食事が届くと、一要さんは丁寧に皿へ移し替え、食べている間中、コシマさんにものを投げつけたりフォークを突き刺している。このふたりはいったいなんなのだろうと苦悩してしまった。
 帰り際、ぼくに古いカメラを手渡し、「これはOLYNMPUS PEN W。昔の銀塩カメラでね、35ミリフィルムの一齣の半分を使うからハーフカメラっていうんだよ。使えるかどうか判んないけどあげる」と云って笑った。随分親切にするんだな、と云ったコシマさんに足払いを掛け、「また来てね」と彼は云う。来てねと云われても、恐くて二度と訪れたくないと思った。
 家に帰ってから貰ったカメラを父に見せると、「すごいものを貰ったね。壊れてはいないようだけど、博物館にあってもおかしくないようなカメラだから、大切に飾っておきなさい」と云われた。
 数日後、花子と連れ立っての帰り道、一要さんが声を掛けてきた。
「この子なんだ、シンヤ君が好きなのは」と笑って云った。彼女は、「あー、映画に出てたひとだ。役者さん」と嬉しそうに云った。彼は、「違うよー、ぼくは浮浪者」と巫山戯て答えている。
 彼女の写真撮った? と訊ねられて、まだですと答えたら、「じゃ、ふたりで居るとこ撮ってあげる」と云って携帯電話を取り出した。この前、見たのとは違う機種である。恐らくコシマさんに投げつけて壊したのだろう。花子はきゃっきゃとはしゃいでぼくの腕に摑まった。
 彼はぼくの携帯電話に今撮った写真を転送すると、「いつでもうちにおいでよね」と云って去っていった。うちって、勝手に居候を決め込んでいるのに随分図々しいひとだなあ、と思った。
「あのひと知り合い?」と花子に訊ねられ、父の務めている会社の社長の息子さんだと云うと、彼女は「芸能人じゃないんだ」と呟いた。実は同居人を意味もなくどつき廻した挙句、接吻する癖のある異常者だとはとても云えない。
 調べてみたら、彼については「消息不明」ということになっていた。中にはつき合っていた女性に殺されたとか、心中したとか、海外に逃亡したという適当なものもあった。社長の息子で、売れていないとはいえ役者の家に転がり込んでいて、あんな目立つ容貌をしているのに何故、実情が知れていないのか不思議だった。
 その謎は、クルガワチさんに会った時にやっと解けた。
「ああ、一要君に会ったんだ。そりゃ災難だったねえ」と云うので、自分から訪ねて行ったと答えたら、「そりゃもの好きなこったな」とミナオさんが云った。おまえ、ひとのこと云えねえだろ、とクルガワチさんがにたにたしながら彼の頭をはたいた。
 若しかしてコシマさんとこに直接訪ねて行ったのかと訊かれ、「はい」と答えると、「じゃあ、あの子が突然どつき廻すのも見たんだ」と、クルガワチさんはくすくす笑った。
 彼に依ると一要さんは本来、虫も殺さないような温順しい性格らしいのだが(女癖が悪いのは十代の頃からだったそうだけれど)、突然小島さんの家に居座り、彼にだけ乱暴狼藉を働くようになったという。いきなり眠り込むのは「ナルコレプシー」という一種の眠り病とのことであるが、それも正確なところは医者にも判らないらしかった。死んだとか逃亡したというのは、小島さんの事務所のひとが面白がって流した噂らしい。
 ミナオさんが花子に向かって、「そいつには絶対近づくなよ」と睨んだ。
「この近所で会ったよ、ねえ」
 と彼女は無邪気にもぼくに云う。クルガワチさんもミナオさんも、えー、と仰け反った。
「あいつ、例の三文役者の周りにしか出没しねえんじゃなかったのかよ」とミナオさんが怒ったようにクルガワチさんに云うと、「おれに怒るなよ。女狂いっていっても子供に手え出しったって話は聞かねえから大丈夫だろ」と呑気に答えていた。
「んなもん、ガイキチのこったからいつ宗旨替えするか判ったもんじゃねえよ」とミナオさんはぶつぶつ云っていた。


 その後、もう彼に会うことはないだろうと思っていたら、中央区の大型家電店でばったり会ってしまった。半年も経っているから覚えていないだろうと思ったら、向こうから近づいてきた。長かった髪はいきなりなんで、というくらい短くなっていた。どうやら伸びた分だけ残して脱色したところを切ったようである。
 当然のことながら季節も変わっており服装も秋の終わりらしい恰好で、そこまで外見が変わっているのに、何故か山田一要であることは一目で判った。お久し振りです、と云うと、「相変わらず丁寧だね」と笑った。
 さすがに名前まで覚えていなかったらしく、なんてったっけと訊かれ、もう一度名乗った。
「シンヤ君ね、覚えた。彼女の名前は覚えてるよ、ハナコちゃん。忘れようがない名前だから」と面白そうに目を細めた。若しかして兄弟は太郎とか、と云うのでそうですと答えると、「はあ、随分巫山戯た親……。でも却って覚えやすいかな」お兄さん、弟? とくすくす笑って訊いてくる。双子だと答えたら、「それはまた、強烈な」と呟いた。
 そこへ髪の長い女のひとがやって来て、「もー、なんで勝手にどっか行っちゃうの。六階の楽器屋まで探しに行ったじゃない」と彼に云った。一要さんは笑って謝っている。
「カメラ売り場で中学生相手に自分とこの製品売りつけてるんじゃないでしょうね」と彼女が云うのを受けて、「違うよ、前に話した腐ってくものの写真撮る子」 と答えると、ああ、あんたがわざわざ会いに行ったっていう……、というのを聞いて、あれは偶然通り掛かったのではなかったのかと思い、少し恐くなった。なにしろ、意味もなく他人をどつき廻すひとである。
 女のひとはカズホといって、一要が眠り込むと困るからうちに行こうか、と家電店の近くにあるカフェへ向かった。彼女の父親が経営しているとのことである。 実際、彼は店に入ってコーヒーが運ばれる前にぱたっと眠ってしまった。
「まだ腐ったもん撮ってるの?」と首を傾げて訊ねる彼女に、そうだと答えると、「変わってるねー」としみじみ云われてしまった。
 最近撮った写真見せてよ、と云われてカメラを渡すと、
「あれー、ちゃんと女の子撮ってるじゃん……。でもなんで体重計に乗せてんの」と訊いてきた。変化するものじゃないと面白くないから、と答えたら彼女は大笑いした。
「こんな古ぼけた体重計もすごいけど、云われた通りちゃんと乗っかってる彼女もすごいねえ。普通、女の子って体重なんか彼氏に知られたくないもんだけど」まあ、太ってないから平気なのかな、と呟いていた。
 三十分ほどカズホさんと云う女性と取り留めのない話をして、卓子に突っ伏したまま、一向に起きる気配を見せない一要さんに「宜しくお伝え下さい」と店を出た。彼女が云うには、一要さんはもう、例の「売れない役者」であるコシマコウジの部屋を出て、別の処に移り住んだとのことである。何処に住んでいるのかは教えてくれなかった。別に知りたくはなかったけれど。

 花子の兄である太郎は、はじめのうちはぼくに素っ気ない態度を取っていたが、次第に話したりするようになってきた。剣道をやっているだけあって生真面目な性格をしていたので、ぼくの撮った写真を見ると顔を顰めてはいたが。
 妖怪のような彼女の「親戚のお兄さん」も、ぼくのことを警戒するような眼差しで見てはいたが 、一応受け入れてくれていた。
 彼女はぼくのことをどう思っているのだろうか。ただの隣の席の男の子としか思っていないのだろうか。それとも特別な存在として見てくれているのだろうか。 保健室の隅に置かれた、今は使われていないけれど単純な構造だからちゃんと機能する体重計の丸い計測盤の上に顎を乗せて笑っている彼女の写真を見ながら考えた。
 目盛りは42,8を指していた。

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