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金魚

 夏祭りで妻の清世が金魚すくいをしてきて、二匹の金魚を飼うことになった。わたしが一緒だったらそんなことはさせないが、近所の子供たちと行ったので止めることは出来なかった。
 我が家には猫が七匹居る。庭には通りすがりの野良猫と鴉が居るのだ。
 野良猫に来るなとは云えないし、鴉とは非常に親しい仲である。何処で飼うつもりなのだ。冷蔵庫にでも入れておくのか。
 考えた末、猫が立ち入らない洗面所に水槽を置くことにした。昔住んでいたアパートでは到底、出来ないことである。
 金魚は黒い出目金と紅い琉金だそうな。大きさは尾鰭を除いて一寸ほどらしい。まともに育つとは思えない。思えないが、むざむざ殺す訳にはいかないので、ちゃんと水槽に酸素を送る装置を買って設置した。
 以前ならばそう謂ったことはすべてわたしがやっていたが、目が見えないので出来ない。彼女は説明書を読んでひとりでやった。やれば出来るではないか。
 金魚はもともと鮒が突然変異したものを観賞用に品種改良したものである。淡水魚で、水草や藻などを食べ、その水草に卵を産みつける。間違って我が子を喰ったりしないのだろうか。
 琉金や出目金の尾は、広がってふたつに分かれている。黒と赤だが、生まれた時は皆黒いそうだ。それが徐々に褪色して、白や赤になる。黒色の場合は変化しないのだろう。
 金魚に名前をつけても仕方がないが、出目金を「鈴木さん」、琉金を「佐藤さん」にした。意味はない。
 洗面所へ行くと、水槽の濾過器から流れ出る水のちょろちょろという音が聴こえる。なかなか風流で宜しい。清世が云うには名前を呼んでも反応はないと謂うことである。手を叩いても来ないらしい。
 とは謂え、ひとの影を見ると餌をもらえると思って寄ってくるそうだ。金魚だけに現金と謂うか、その本能にのみ従った野生は反面教師でもあり、羨ましくもある。が、人間が金魚のように反応していたら、世間から排斥され、精神的に病んだ挙句、命を断つ結果を見るかも知れない。
 洗面所には最初に飼ったコロが、一度洗ってやってから怖がって這入らなくなったので、その後の猫も聞いているのか這入ることはない。猫にも伝達能力があるらしい。コロを飼った時から四十年も経っており、会ったことのない猫までその伝統を守っているのが面白い。
 ゴンタがわたしについてきた時は、コロが怯えてしまったので取り敢えず洗面所に入れたが、飼いだしてからはわたしが抱いて入れない限り自分からは這入ろうとしなかった。猫は用のない場所にも這入ってゆくが、洗面所だけは禁忌の場所になっているとみえる。
 猫と謂うのは何処にでも這入り込むもので、何故そこに、と思う場所によく居る。棚と机の間に挟まっていることもあったし、己れより小さいような箱の裡で眠っていることもあった。スーパー袋が好きで、裡にも這入るし齧って遊ぶ。市販の玩具を与えたことは殆どない。
 何故なら、見向きもしなかったからだ。
 齧るのは袋だけでなく、コードも齧るしわたしも齧る。歯がむずむずするのだろうか。齧られても痛くはないが、その際に手で摑むので、爪を立てられると痛い。
 猫の爪は細く鋭い。閑さえあれば至る処で研いでいる。研ぐばかりでなく、口で鞘状の殻を抜いている。歩く時は引っ込めているので音はしない。犬が廊下を歩くとかちかち爪が鳴るが、猫はひたとも音を立てずに歩く。音もなく忍び寄ってくるので、屢々驚かされる。
 とはいえ、ひたひた歩くのも気分に依るのか個体に依るのか判らぬが、とたとたと足音をはっきりとさせるものも居る。机から降りる時も「とた」、椅子から降りる時も「とた」、ひと足毎にとた、とた、とた。
 真夜中でも足音を忍ぶように響かせ(この矛盾)、そちらを見れば目だけが光っている。なんと申せばいいか、神秘的ではある。麗しいとまではいえないが、禍々しいともいえない。傍に来れば愛おしいとしか思えぬ。こねくり廻した挙句、眠りに就く。
 職場の先輩だった草村紘が飼っている猫は血統書つきのロシアンブルーで、死ぬと同じ猫を飼い、同じ「あお」と謂う名前をつけている。この猫も買ってきた玩具には見向きもせず、スーパー袋や靴紐を齧って遊ぶらしい。猫ちぐらを買い与えても、踏み潰して仕舞うそうだ。
 猫は野生を多く残しているので、売っているしゃらくさいものはあまり喜ばない。
 年をとった四姉妹は、もう活発に動き廻らず寝てばかりいるが、この夏、庭先で拾った三匹の猫は子供なのでうろつき廻る。小さいので踏み潰さないように気をつけなければならない。この猫たちも雌である。これまで飼った猫で、雄だったのはゴンタ、タンゲ、コメの三つたりだった。
 タンゲは獣医より引き取った時から既に片目で、コメは緑内障を患って隻眼になった。そしてわたしは爺いになってから失明した。どうも妻は、目の悪い男に縁があるらしい。
 猫の性別からして、我が家は女系家族のようである。金魚の雌雄は判らないが、雌のような気がする。雄と雌だとしたら、卵を産んだりするのだろうか。それよりも、彼らはちゃんと成長するのだろうか。
 子供の頃に金魚すくいをやったことはない。そもそも夏祭りと謂うものにあまり行かなかった。行ったのは母の実家に行った時だけで、それも町内会主催の小さな規模のものだった。それ以外で金魚すくいを見かけたのは、ホームセンターの夏休み向けの催し物か、学園祭くらいか。学園祭で金魚すくいなどやっていたであろうか。
 古い記憶なので正確には思い出せない。兎に角、わたしには縁がなかった。
 動物を飼ったのもコロがはじめてで、慣れなかったばかりに十三年で死なせてしまった。猫の寿命としては長生きらしいが、生きものの死に目に遭った経験がなかったので途方に暮れた。彼女が死んだのは恰度清世が出掛けていた時で、休日だったわたしが家に居た為に見つけた。
 情けない話だが、この場に清世が傍に居てくれたら、と思った。
 体が弱ってきており、ものも碌に食べなくなってしまったので心配はしていた。その時飼っていたゴンタとクツシタ、タンゲが、窓際に居るコロを取り囲んで頻りに匂いを嗅いでいるのを不審に思い、様子を見に行ったら、既に冷たくなっていた。
 猫にしては大柄だったその体が、急に小さくなったように見えた。年をとって艶がなくなった毛は、更に脂が抜けたようになってばさばさしていた。抱きかかえても、生きていた時のようには寄り添ってこなかった。それが悲しかった。
 コロを抱き上げたわたしの足許に三匹の猫が纏わりついて、何うしたのだ、何があったのだと謂うような顔をしていた。
 獣医に紹介されたペット霊園に連れてゆき、火葬にして共同墓地へ埋葬した。帰宅すると、猫たちはコロを連れていないことを不審に思ったようだった。冷たくなった彼女を箱に入れた時も不安そうにしていた。何故そんなことをするのだ、何うしてコロは冷たく硬くなっているのだ、おまえが何かしたのではないか、と謂う視線を感じた。
 わたしは何もしていない、わたしだって悲しいのだ、と伝えられないのが悔しかった。
 連絡をしたらすぐに戻ってきた清世は、コロの亡骸を見て泣きに泣いた。そんな風に泣けばすっきりするだろうが、わたしは泣けなかった。ただ、悲しみと喪失感だけが胸に蟠った。
 猫たちはコロのことをすぐに忘れた。清世も次第にコロのことは口にしなくなった。わたしだけがいつまでもその死に馴染めなかった。
 それからゴンタが死に、クツシタが逝き、タンゲも死んで了った。この夏には、コメとマルが立て続けに死んだ。それと入れ替わりに、庭で三匹の仔猫を見つけた。見つけたのではなく、声を聞きつけた。これ以上猫の死に目に遭いたくなかったので飼うつもりはなかった。
 けれども、これは今まで死んだ猫たちが淋しがらないように寄越してくれたのかも知れないと思い、飼うことにした。
 慾しかった子供は出来ても流れてしまい、諦めた。その代わり、猫が切れ間なしにわたしの傍に居てくれる。何れだけ心強かったか知れない。気分が鬱いでも、やる気を失っても、こいつらの為にへこたれるなと自分を励ました。そうして六十七才まで生きてきた。
 思い通りになることばかりではない。ならないことの方が多い。だからこそ、清世や猫には思うように暮らして慾しいと思う。特別なことは何もしてやれないが、分相応のことは出来る。幸いなことに、それ以上を求められていない。わたしも迷惑を掛けているが、なるべく負担にならないようにはしている。
 金魚には何をしてやれるだろうか。せめてきれいな水で飼ってやろう。


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