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趣味

 此処に木下亮二という男がおります。他人には変わり者だとよく云われるのですが、本人はそう云われるのを非常に嫌うので云わない方がいいです。怒りゃしませんけどね、そんなことでは。
 で、この男は趣味でバンドなんかやっている。趣味があるってのはいいですね。どんなに忙しいひとでも、ぽかっと時間が開いちゃうことがある。そうなると、趣味がないひとは時間を持て余しちゃう。なんにもすることがないなあ、閑だなあ、って、ごそごそポテトチップなんか喰っちゃう。で、太っちゃうんですね。よくありません。成人病になります。
 そこへいくと趣味のあるひとはいいですね。時間が潰せる。電車ン乗ってぼーっとしてるひとが多いですけど、読書が好きなひとは本を読む。知識が増えます。漫画じゃ駄目ですけどね。知識は増えるかも知れませんけど、大人が電車で漫画読んじゃいけません。馬鹿だと思われます。
 趣味って金が掛かるんじゃないの、っておっしゃる方も居ますがね、金の掛からない趣味だってあるんです。譬えば観察。人間や動物観察するだけなら、元手は一切掛かりません。ただ、人間をおおっぴらに観察すると、少々問題がありますんでね、相手に判らないように見る。じろじろ見たら失礼ですからね。
 で、この木下亮二君をちょっと見ると、怒ったような顔してんですね。別に怒っちゃいないんですけどね、ひとりで居るとそんな顔つきをしてる。まあ、ひとりっきりで居て笑ってたら気持ち悪いんですけどね。そんでも、誰かと喋ってるとよく笑うんですよ。何がそんなに可笑しいんですかね。
 黙ってると仏頂面してるもんですから、そのギャップが大きい。だから、笑ってるのが印象に強く残るんでしょう。お喋りでもないんですけどね、ひとの話を聞くのが好きなんでしょうね。ひとから変人と云われるだけあって、妙なこともよく口走ります。
 趣味の話に戻ります。彼は音楽が好きなんですけど、ひと前でなんかするのがそう好きじゃないんですね。それなのに歌唄ってるんですけど。バンドで。ギターも弾きます。こっちの方が好きみたいですね。歌唄うことも嫌いじゃない。ひと前で唄うのが恥ずかしいだけで。カラオケも行ったことがない。カラオケ行く奴ぁ異常者だとまで云うんです。失礼ですね。
 まあ、音感がいいんでしょうな。唄っても音を外すようなことはないし、ギターもちょっと練習したらいっぱしに弾けるようになった。ベースも弾けるし、太鼓も叩ける。
 それ以外の趣味と云えば、読書。閑さえあれば本を読んでる。本だけじゃなくて、文字が書いてありゃなんだって読む。飯喰ってても、成分表とかじっと見てる。なんか買う時も、品質表示やらの札を熱心に読む。読んで判ってるかどうかは知りませんがね。
 またこの男、目が悪いんです。本読み過ぎた所為でしょうね。もう、ド近眼。ド近眼なのに、ずっとそのことに気づかなかった。十九の夏に運転免許を取りに行ったんです。そこで視力検査をしたら、これじゃあ車は運転させられんよ、と云われて、眼鏡を誂えた。
 最近眼鏡、安いですね。昔の10分の1くらいで買えちゃう。なんであんなに安くなったんですかね。昔の値段の方が不当だったんでしょうか。
 彼もそういった安い店で買いました。五千円くらいで。そんで、掛けてみたら、こう、世の中が曇りを取っ払ったみたいにきれいに見えて吃驚した訳ですよ。吃驚したけど、眼鏡ってやつは掛け慣れてても鬱陶しいもんです。鼻に当たる感じとかね。ずっと掛けていると、耳の後ろも痛くなってくることがある。
 で、このひと、あんまり辛抱強くなくて、もの見る時だけ掛けてる。掛けてた方が賢く見えるのにねえ。それでもって、よく見える世界を恐いとまで思っちゃったんですね。きれいすぎて気味が悪いって。
 そんでまあ、亮二君にはふたつの趣味があった。音楽と読書。あと出来ることは料理なんですが、これは必要に迫られてやるようになったので、趣味ではない。そもそも、本人は音楽も読書も趣味だと思っていない。なんでかってーと、彼にとってこれらは息をするのと変わらないんです。ごく普通の日常的な行為。意識せずにやっている。
 では、木下亮二は無趣味なのか、というと、そうでもない。この男はひとりもんじゃないんです。連れ合いが居る。なかなか結婚しなかったんですが、今はしています。その女性とは十九才の時からつき合ってるんですけど、非常に仲が良い。非常識なくらい、仲が良い。
 どんだけ仲が良いかってーと、何かしていないと彼女のことばっかり考えてる。見える処に居ないと探す。傍に居ないと淋しいんですかね。見つけると傍に行って触ったりキスしたりする。彼女が行く処へついて歩くんです。便所にはついて行きませんけど。座れば一緒に座って、洗濯もん干しに行けばついてって、台所に立てばその後ろに居る。手伝わないんですけどね。
 相手の方も鬱陶しがって蠅でも払うようにする、なんてことはしないで、嬉しそうにしてる。仲が良いってのはいいことです。
 つまり、彼の趣味はてめえのかみさんなんですね。幸せな男です。




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