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作文。

 外国のことはよく知らないが、日本の学校は早い時期から子供に文章を書かせる。所謂「作文」である。何かの催し、学芸会や遠足、課外授業などがあった折、その感想を原稿用紙に数枚ほど書かせる。教室で書かせることもあれば、宿題として出す場合もあるだろう。
 宿題にすると、不正を働く惧れ(他人に書かせる、または誰かが書いたものを写す)があるので、教師は心した方がいい。
 わたしは国語の成績はずっと良かったが、この作文が苦手だった。読書感想文ならいけるのだが、作文となると、己れの行動に何かしら感動がないと書けない。わたしは非常にしらけたガキだったので、日常生活で感動することなど、滅多になかったのだ。
 しかも苛められていたので友人もなく、そんな状況で赴く遠足や社会見学など、苦痛以外の何ものでもない。だからと謂って、作文に「何処に行っても孤立して、弁当もひとりでもそもそ喰った。楽しい訳があるか」と正直に書く訳にもいかない。
 だが、自分で勝手に何ごとかを書くのは、子供の頃から好きだった。短い文や、散文詩のようなものを大学ノートに書き散らしていた。誰に見せる訳でもなかったが、書いているだけで楽しかったのだ。
 考えるだに暗い子供である。
 三つ子の魂百までと謂うが、それがいまだに続いている。学も知識も貧弱なので、実際の社会に即したことは書けない。世間が狭いので、それは致し方ないのだ。
 とは謂え、勝手気儘に適当なことばかり書いている訳でもなく、ある程度は調べる。言葉の意味とか、何かの種類とか、その内容など。そこまで自分勝手な解釈にしたら意味を為さなくなり、何が書いてあるのか判らなくなってしまうからだ。
 まあ、世の中には言語まで創造して書かれた小説もあるが、そんな面倒なことはやりたいともやろうとも思わない。
 コラムのような、思ったことをつらつら書くだけのものは、垂れ流しのように書けばいいが、創作文章となると、架空の世界を創り上げねばならない。近年はこうした仮想世界を題材にしたものをよく見るが、杜撰でお粗末なものが多いように感じられる。
 製作者側の妄想だけを開陳しては、内実がお粗末になる。己れの気持ちだけで物語が形成されるのなら素晴らしいことであろうが、そうした事例は稀である。妄想で構築した世界は、押し並べて自己満足で他者を放逸した内容であり、共感性を欠く。
 創作する人間は登場人物を考える時、先づは性別、外見、性格を決める。外見とは、身長体重、顔立ち髪型、服装の傾向まで含む。それから名前を考える。これだけ決まってしまえば、あとは簡単である。人物だけを考えることはなく、或る物語の裡で動く様子を考えるのだから、後はそれを文章化してゆくだけだ。
 地の文より、会話を考える方が面白い。幾らでも湧いてくる。恐らく自分が普段、碌に会話を交わしていないからだろう。別のやり方として、会話を書き切ってから、科白と科白の間を埋めるように地の文を書く方法がある。会話を頭の裡で捏ねくり廻していると謂うことは、人物がどのようにしているかも思い浮かべているのだから、これも簡単である。
 重要なのは、鉄は熱いうちに打て、と謂うように、頭の裡で沸騰している状態で文字にすることだ。冷めてしまっては誰にとっても魅力がなくなる。伸びた蕎麦など、旨い訳がない。やはり作る以上は美味しいものを出したいし、喰ってもらいたい。自分でも不味かったら、廃棄処分にする。
 わたしとしては、こうした文章をコラムとかエッセイとは恥ずかしくて云えないし、ましてや妄想をぶちまけた文章を、小説などとは口が裂けても申せない。なので、創作文章としているのだが、それですら、何か口はばったく感じる。わたしは恥ずかしがり屋さんなのだ。
 照れもせずこんなことを書いて、何が恥ずかしがり屋さんであろうか。

2019、10月12日。某ブログにて。


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