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ユニクロの歴史についてー日本企業が学ぶべき変革と挑戦の経営

 まず初めになぜ私がユニクロ、及びファーストリテイリング について3万字弱もの分量を書こうと思ったかについて書かせていただきます。私が多くの企業を見てきた中で思っていたことは、多くの成功している日本企業は戦前からあるものが多く、それらは財閥などの大規模な資本を受け継いだものや自動車やエンジンを生産する企業などは日本が持っていた技術的DNA(元々は綿花栽培、繊維産業)を受け継いだものであり、さらにそれらに該当しない大企業であってもうまく高度経済成長にのれたという企業が大半であり、非常に外部的な要因によって成功しているのではないかと思ったからです。もちろんそれらの企業も戦略、生産方式、技術など不断の努力とカイゼン、イノベーションによって育ってきたわけでありますが。一方でユニクロは戦後に創業された企業であり、本格的に事業を拡大するときには高度経済成長が収束しかけていました。第1号店開店から35年ほどで今や製造小売アパレル業界においては世界第2位という輝かしい成果を残しています。まだ成長を続けていますが、この成功要因は何だったのかについて考えることは1ビジネスマン、1企業、そして日本企業、日本産業界としてこれから成長・発展していくために非常に意義があることだと考えています。
 この記事は有料となっていますので先にどのような方々に役立つのか、どのような使い方をすれば役に立つのかについて書いておきたいと思います。
この記事では、株式会社ファーストリテイリング の客観的事実に焦点を当てて書きました(10章以外)。それゆえ筆者の考察や分析などは含めていません。この理由はなぜかというとこの記事が次の目的のために書かれているからです。ビジネスマンが企業のケーススタディをしたり、就活生が企業分析をしたり、財務諸表分析の資料として活用したりという実践的な目的に役立ちます。そして単純にユニクロやファーストリテイリング について詳しく知りたい、企業の歴史や経営に興味があるという人たちにとっても非常に読み応えのあるものになっています。また記事の作成には企業のウェブサイトや日経新聞、有名出版社を通して出版されている著書などの信頼できる参考文献・URLしか用いていません。
 客観的事実に焦点を当てたとありますが、このケースには経営において非常に大切な事例、企業行動が多く含まれています。これらの事柄を時系列に読み解き、どのような状況で企業がどのように行動をしたのかについて学ぶことは新たな示唆を与えてくれることでしょう。株式会社ファーストリテイリング について特筆することがあるとすれば、人事戦略、グローバル戦略、サプライチェーン戦略、ブランド戦略、情報戦略は特に経営論としても非常に面白い内容が含まれていると思います。
 一応、ユニクロの歴史についてというタイトルではありますが、ファーストリテイリング という大きな括りとしても書いていますので、グループ全体の概要も学べることと思います。ただユニクロの歴史や情報が相対的に多いのでユニクロの歴史というタイトルをつけさせていただきました。記事の最後11章にはユニクロ事業及びファーストリテイリング について考えるきっかけとなるような問いも少しではありますが用意してありますので、ご活用ください。ユニクロの何がすごいのか、ということを本質的に考えるきっかけとなると思います。このケースを読むだけではなく、実際にいろんな店舗に足を運んで見てみるのも雰囲気やユニクロが作り出しているものを考えるときに効果的だと思います。


目次


ファーストリテイリング沿革概要

1. はじめに


2. 業界動向と現状


3. 創業から成⻑まで


創業者柳井正の原点/柳井正、家業を継ぐ/ユニクロ第 1 号店/SPA 体制へ


4. 国内店舗拡大


サプライチェーンの構築/フリースの成功/中央主権型から文献型へ/人材の必要性


5. 海外進出失敗


イギリス出店/イギリス事業の欠陥/イギリスでの改革「昔のユニクロに戻ろう」/中国出店


6. ユニクロの商品戦略


ユニクロのマーチャンダイジング/ヒートテックの開発/UIP(ユニクロイノベーションプロジェクト)


7. 再び海外へ


香港出店/再び中国での挑戦/旗艦店というモデルの確立/情報発信の場は店舗にあり


8. ブランドの育成と買収


GU 事業「ファッションをもっと自由に」/グローバルブランド事業/ファーストリテイリングのポートフォリオ


9. 情報 SPA の道へ


「服は情報である」の意/情報 SPA の今後/究極の情報 SPA に向けて

10. 終わりに


11. ケースについて考えるための問い


12. 参考文献・参考URL



ファーストリテイリング 沿革概要



1949年: 柳井等が山口県宇部市にメンズショップ小郡商事を創業


1963年:資本金 600 万円にて小郡商事を設立


1972年:柳井正、ジャスコを退社し家業に専念


1984年: ユニクロ第 1 号店を広島市に出店(1991 年閉店)


1991年:商号をファーストリテイリングに変更


1994年:広島証券取引所上場、店舗数 100 店舗超


1998年:東京・原宿店が話題に、フリースブーム


1999年:東証 1 部銘柄に指定、生産管理業務の充実を図るため上海事務所開設


2000年: MD およびマーケティング機能強化のため東京本部開設


2001年:イギリス出店、店舗数 500 店舗超
2002年:中国・上海出店、ユニクロデザイン研究室開設


2005年: 韓国・アメリカ・香港に出店、新規事業拡大を目的とし持ち株会社体制へ


2006年:東レと戦略的パートナーシップの構築を目的に業務提携締結、初のグローバル旗艦店をニューヨーク・ソーホーに出店、ジーユーが第1号店を出店


2007年:ヒートテックキャンペーンが成功、フランスに出店


2009年:ジーユーの「990 円ジーンズ」が話題に、リンク・セオリー・ジャパンを子会社化、シンガポールに出店、ユニクロ 2,000店舗超


2010年: 東京本部を六本木ミッドタウン・タワーに移転、ロシア・台湾・マレーシア出店


2011年:タイに出店


2013年:インドネシア出店


2014年: オーストラリア・ドイツに出店


2015年:東レと第 3 期「戦略的パートナーシップ」を発表、ベルギー出店
2016年:パリ R&D センター発の新ライン「Uniqlo U」を全世界で販売開始、カナダ出店


2017年:有明本部が稼動:ユニクロの商品・商売機能が六本木本部から移転、スペイン 出店


2018年:ダイフクと物流に関する戦略的グローバルパートナーシップを締結、有明の物流センターが EC 向け自動化倉庫として本格稼動、スウェーデン・オランダに出店


2019年:デンマークに出店
*海外の出店はユニクロ事業についてのみ記入



1. はじめに

ユニクロと聞いて何を思い浮かべるだろうか。ヒートテック、ウルトラライトダウンのような革新的な商品、統一されて合理的に見える店内、はたまた圧倒的な存在感を持つ創業 者柳井正を思い浮かべるかもしれない。この記事を読んでいる時でさえ、読者は何かユニクロの商品を身につけているかもしれない。日本はもとより世界の大都市を訪れると街角で ユニクロのロゴが見える。日本経済が低迷する中で、ユニクロがいかにしてその歩みを止めず急成⻑してきたのかを知ることは多くの日本企業にとって参考になるだろう。本記事では、ユニクロ事業を中心として成⻑し、「服を変え、常識を変え、世界を変えていく」ファーストリテイリングが歩んできた軌跡を見ていく。



2. 業界動向と現状

国内アパレル総小売市場規模は 9 兆 2,2239 億円(2018 年)で、数年間の間ほぼ横ばいとなっている。今後は人口減少、少子高齢化に伴い微減傾向になっていくと見られている。 市場規模の内訳を販売チャネル別に見ると百貨店は 1 兆 7,945 億円、量販店は 8,027 億円、 専門店は 5 兆 7,945 億円、インターネット通販を含むその他は 1 兆 5,593 億円となってい る。厳しい状況が続く百貨店は商品・売り場の見直しや新たな接客方法の導入などでより 顧客のニーズに即した提案を強めている。ユニクロやしまむら、ユナイテッドアローズを はじめとするセレクトショップなどの専門店は微増で、ファッション感度の高い顧客層を 中心に健闘している。しかし⻘山商事などの紳士服チェーンは苦戦を強いられている。ま た ZOZOTOWN を運営する ZOZO やアマゾンなどのネット通販の拡大によりその他の チャネルの規模が大きくなっている。
ユニクロを完全子会社として持つファーストリテイリングはユニクロの他に成⻑事業で ある GU やより高価格帯のブランドの運営も行なっている。1984 年にユニクロ第 1 号店 を広島市に出店して以来、35 年ほどが経った 2019 年 8 月期決算ではグループ全体の年間 売上が2兆円を突破したファーストリテイリングは世界を代表するアパレル企業となった。 そして創業者柳井正が掲げるグローバル 1 すなわち世界 1 になる目標を基にその成⻑を止 めていない。現在、国内アパレル業界では連結売上高が 2 兆 2,905 億円(2019 年 8 月期) で 2 位のしまむら(2019 年 2 月期連結売上高 5,460 億円)と 4 倍以上もの差をつけて圧倒的首位、世界全体のアパレル業界では ZARA、Bershka などのブランドを子会社にもつ INDITEX、スウェーデン発祥のアパレルブランド H&M に次いで 3 位の座についており、 まもなく H&M の 2 位の座に迫ろうとしている。2019 年 8 月期のファーストリテイリン グの通期決算を見てみると国内ユニクロ事業売上は 8,730 億円、その他 GU 事業やグロー バルブランド事業の日本国内店舗の売上を合わせると優に 1 兆円を超える。国内アパレル 市場規模が約 9 兆円と考えるとファーストリテイリングが日本でどれほど大きな存在感を 持っているかがわかるだろう。また INDITEX の 2018 年度決算をみるとスペインとその 他のヨーロッパ諸国での売上の合計は全体売上の 61.3%(スペイン:16.2%、その他のヨ ーロッパ諸国:46.1%)である。これはおよそ 2 兆円と計算できる(2018 年 12 月 29 日時 点の為替レート 1 円=0.0079 ユーロとして計算)。よって業界で世界 1 の売上を誇る INDITEX も売上の大半は欧州であり、成⻑市場のアジアで強みを持つファーストリテイ リングは今後も十分勝機があると思われる。



3. 創業から成⻑まで


3.1 創業者 柳井正の原点

柳井正は 1949 年、山口県宇部市で生まれた。⻑男であったが姉と妹がいた。柳井正が 生まれたのと同じ年、父・柳井等は駅前の商店街にメンズショップ小郡商事を創業した。 そこでは銀行員や証券マンを中心に上等な紳士服を着こなしたい男性客たちがよく訪れた。 父・等とは異なり、正は内気で大人しい少年であった。父が小売業を営んでいるのもあっ て、日常と商売が密着した生活をしていた。ご飯を早く食べないと叱られるような家庭で 育った。
父・等は忠が中学生になる頃には、建設会社を創業し、地元の政治家や大企業の有力者と 関係を持つようになり次第に街でも有力な存在となっていった。父・等は他にも喫茶店や 映画館も営むようになった。そのような生活の中で当時流行していたアメリカンカジュア ルいわゆるアメカジブランドである VAN は父・等のお気に入りのブランドであり、等は VAN ショップも始めた。VAN は 1960 年代日本でアイビールックやみゆき族などの流行 を生み出した。これが正がカジュアルウェアに興味を持つ原点となる。
正の高校時代のあだ名は山川。人が山といえば、彼は川というからである。人と同じこと はしたくない人間であった。1967 年、高校を卒業後、山口県から上京し、早稲田大学政治 経済学部に入学する。


3.2 柳井正、家業を継ぐ


大学時代の正は典型的な無気力学生であり、学生運動で大学の講義が⻑期間休校になっ ていたこともあり、麻雀やパチンコをしながら無為に日々を過ごしていた。できるだけ働 きたくないと思っていた正であったが、父の強い勧めでジャスコに入社した。しかし、正 は仕事に意欲を持てず、すぐに退社をした。半年ほど東京で憂鬱な居候生活を送り、その 後、山口県に戻り、1972 年、家業である紳士服店を手伝うことにした。
実際に仕事をしてみると、ジャスコでの経験から家業がいかに非効率的な業務を行なっ ているかに気づいた。従業員にあれこれ指摘をしていっていると浦利治(現ユニクロ監査 役)を残して従業員全員が辞めてしまった。結果的に、正は仕入れ、販売、経理、人事な どの店の業務を全て自分の手で行わざるを得なくなった。そして父・等は正に会社の実印 を渡し、好きにやれと言った。父がどのような意図で実印を渡してきたかは知らなかった が、正の個々の中には一つしかない、「やるしかない」。会社の全てを任された正は残った 従業員・浦とともに、全ての業務を寝る間も惜しんで取り組んだ。この頃から自分で仕事 をすることの面白さを感じ始めた。柳井正、25 歳の時であった。


3.3 ユニクロ第 1 号店


スーツなどを扱う紳士服店とカジュアルな服を扱う VAN ショップを経営していた正は限界を感じていた。というのも、紳士服は接客が必ず必要で、採寸などの高度な技術や熟 練が必要になり、店舗の拡大もそのような人材の確保の面からも難しいからである。一方で、カジュアルウェアは接客の必要もなく、顧客層も紳士服のように大人の働く男性とい うものに絞らなくても良い。
そして柳井正がヒントを得たのは、アメリカを訪れ時に見た大学の生協の売り場である。 学生が欲しいものをいつでも手に入れられ、それでいて接客もいらない。そうすることで 顧客も接客によるストレスを感じることなく、買いたいものが特に無ければお店を出て行 くことができる。店員は顧客のサポートに徹することでセルフサービスの経費削減的なイ メージも払拭できると考えた。「低価格のカジュアルウェアが週刊誌のように気軽に、セル フサービスで買える店」というコンセプトと「衣・飾・自由」というキャッチフレーズを 基に店の名称を「ユニーク・クロージング・ウェアハウス」とした。後に名前はユニクロ となる。1984年6月2日、ユニクロの第1号店は広島市中区の商店街の中にあるマンションの1階と2階を利用して開店した。ラジオやテレビで広告を出したり、近所の学校や駅、商店街などでチラシを配ったりした甲斐があり、開店直後は入場制限をするほどの盛況であっ た。柳井正本人がラジオ中継で「人が多すぎるので来ないでください」と呼びかけたほど である。


3.4 SPA 体制へ

1984 年のユニクロ第 1 号店開店の翌年1985年にはユニクロ初となるロードサイド店を山口県下関市に出店した。1960年代に起きたモータリゼーションにより全国で道路整備が され、しかもこの時期は団塊の世代が自動車を保有する余裕がある年齢になってきている 時期でもあった。このロードサイド店の出店を機に、ロードサイド型店舗はユニクロの店舗の原型となっていった。1986 年にはユニクロ初となるフランチャイズとなる店舗を山口県で開店させた。
店舗数も順調に増やし成⻑していたユニクロであったが、仕入れた物を売るというビジ ネスモデルには限界があった。ユニクロの商品は低価格を売りにしているため、仕入れる 商品の品質は優先順位としてコストの次に来るのである。いわゆる安かろう悪かろうの商 品である。一部の製品は商社を経由して海外での生産を行なっていたが、不十分な品質管 理体制、納期遅れが散見され、柳井自身も商品を自社で生産することを考えるようになる。
香港にはジョルダーノというアパレルブランドがあり、当時その個性的なデザインと低 価格で香港の若者から圧倒的な支持を得ていた。1986 年に柳井が新たな仕入れ先を見つけ に香港を訪れた際、ジョルダーノの商品を見て、その品質の良さと安さに驚いた。ジョル ダーノは自らデザインと企画、販売を行い、生産を外部の衣料工場に委託するというビジ ネスモデルをとっている。このビジネスモデルは SPA(製造小売業)と言われ、調達、企 画、開発、映像、物流、販売、在庫管理、店舗企画などを一貫して行うことである。これ により顧客の意見を素早く商品に反映したり、自社商品の品質を維持したり、サプライチ ェーン全体での無駄とコストを省いたり、ブランドイメージを保ったりすることができる ようになる。しかしながら流通を自社でしなければならずそれによるコストがかかったり、 需要予測を読み誤った場合在庫リスクが発生したりするというデメリットもある。
この香港の訪問を機に柳井は生産委託業者を探して、SPA の体制を構築し始める。1988 年には香港にバイイング事務所を立ち上げ、中国やベトナムなどの縫製苦情に直接発注す る体制を整えた。同年、全店舗に POS(販売時点情報管理)システムを導入し、早くも販 売情報・在庫管理システムの構築に着手した。翌 1989 年には素材段階からの自社企画商 品の開発充実のために、大阪府吹田市に商品部大阪事務所を開設、また山口県宇部市には 物流業務強化のため配送センターを設置し、この間 2 年間で急速に SPA 化への体制を整 えた。


4. 国内店舗拡大


4.1 サプライチェーンの構築

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