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「いじめ」をしていた彼女が、母親になった

母親になるのが、とてつもなく怖い。いつかどこかの誰かと結婚し、ゆくゆくは愛する自分の子供が欲しいと思う反面。
自分に子供ができるということが、どうしても怖い。
子育てとか、養育費とか、ママ友とか、そういうことではなくて。
生まれてくる子供を、心から愛し大切にできるかどうか、不安なのだ。
そんなの子供ができてから考えろよと言われるかもしれないけれど。
子供ができる前に、一度ちゃんと考えておきたいのだ。だって、できたらもうその瞬間から母親だ。母親でない瞬間には、戻れない。
この不安はいつか消えるのかどうか、そしてそんな気持ちを抱えた人間が、女でいていいのか、結婚をしてたやすく子供なんて作っていいのか、そんなことまで、考えてしまう。

母親が、普通に子供を殺す世の中になった。
自分のお腹を痛めて産んだ我が子を、自分の手で今度は殺すのだ。
叩いたり殴ったり蹴ったり。そこにある大切な我が子の命を、自分と血の繋がった愛すべき小さな身体を。
その灯火を消してしまうようなことを、平気でする人がこの世にいるのだ。子供を、愛せない女の人が大勢いるのだ。

そのようなニュースを聞いて、そんなことをするなんて信じられないと思う反面で、
いつも頭の中で思うことがある。

自分がそうならない確証って、どこにもないな。と

人間って、未知の生物だと思う。自分も人だからそうなんだけど、そしてとても無責任なことを言っているのはわかってはいるのだけれど。
ある日、どこでなんのスイッチがはいるかわからない。
昨日は優しかった人が次の日には悪魔みたいになったり。信じていた人が手のひらを返して向こう側に行ってしまったり、愛が消えて冷たさしか降りかざせなくなったり。
ある日変わるかもしれない感情を持ち続ける私たちは。きっといつも不安定だ。

子供に手をあげたり、蹴ったりしてしまうあの人たちもきっと、どこかで。
なにかのスイッチを踏んでしまって、止められなくなってしまったんじゃないかって、そう思う。ただ攻めているだけではなにもわからないけれど、一歩引いたらすこし見方が変わる。
そのスイッチのきっかけは、きっと人によって違うのだから。

いつ、自分が加害者になるのか、それはわからないんじゃないか。
イライラしたり、むしゃくしゃしたり。
感情のコントロールができなくなって、理不尽なことを子供に言ってしまうのではないか。
されて嫌なことを、してしまうのではないか。
悲しみに気づけないのではないか。
そんな風に、いつかできる自分の子供を心から、心の底から愛せるのか、不安で不安で仕方ない。
命を預かる覚悟が、わたしにはまだない。

昔、いわゆるカースト上位の女の子のグループに、嫌がらせの的になったことがあった。
今思えば子供だからよくある話、ってまとめられてしまうのかもしれないけれど。
わたしにとってはとても苦痛で、思い出すだけで胃が痛くなるような嫌な数年だった。
体育で失敗したら笑われるし、テストで良い点を取ったら目立ってしまう。
ブスだと、きもいと言われたくないから、なるべく話すことをやめた。髪を切っただけで影でこそこそ指をさされるから、廊下を歩くのも控えた。
あの子達の目につかないように、そんな感じだった。

その中の一人。
平気で人の愚痴を言って、笑ってた子が。
あの時、あの場所でわたしを馬鹿にしていたあの子が。

結婚して、子供ができて、母親になった。

母親になる彼女は。
どんな風に、愛を伝えるのだろうか。
どんな風に、強さを教えるのだろうか。
優しさを、思いやりを、生き方を。
どうやって子供に受け渡すのだろうか。

そんなことはわたしには関係がないことだし、この先も答え合わせができないことだ。
人は人、あの子の人生はあの子のもので、ただそれだけなのだ。わたしはわたしで生きていけば良いし、そんなことを引きずる必要はまったくない。
もうだいぶ、あの頃の記憶は薄くなって、今の自分を好きになれてきたからそこは大丈夫なのだけれど。

ただ。
ただ、あの時わたしを笑い、心無い言葉を吐いたその口で。
これから、小さな赤子に。
0から「愛」を伝えていく彼女のことを思うと、言い知れない悲しさと苦しさが溢れて止まらない。 なんとも言えない気持ちが溢れて、抑えられないのである。

わたしにしたように、しないでいられるのだろうか。
子供がいじめられたら、怒れるのだろうか。
怒ったときに、いつかしてた自分の行動のその意味がわかるのだろうか。
容姿や体裁に関係なく人と関わる大切さを、教えてあげられるのだろうか。
女の強さのその真意を、男の人へ敬意を払うその難しさを。

わたしが不安に思う全部を、彼女はどうやってこなすんだろうか。
どうやって。
子供がいないわたしが、子供がいる彼女のことをこう思うことさえきっと。
世間では間違っていると言われてしまうかもしれない。
母になってからじゃないと言えないことなのだろうけど、ただ。
なぜ、あの時いじめていたあの子が。
母親にって、それだけ、思ってしまったこの卑しい気持ちを、書いてしまいたかった。

子供は親を、選べない。母親のお腹で命が始まったその時から、もう自分の両親が決まっている。その両親である人間が親として良かろうが悪かろうが。
そんなのはなんの関係もなく、子供の運命というのは、生まれるその時にもう決まっている。
その人生のはじまりが幸か不幸かなんて、子供には選択の余地がない。
選び方もわからない。そしてそれは、これからもわからない。わかりえない。

親は子供にとっての最初の「人間関係」であり、彼らから感情を学び育み、言葉を知り、泣いて笑い、生きる術を知る。
家族の輪から少し羽ばたいて次は親戚、それから幼稚園、小学校、時には習い事、時には近所の人、隣のクラスの人、中学校、高校。
そんな風に広がる人間の世界で。
一番最初に出会う、自分以外の他人が「両親」だ。
幼少の頃の家庭環境が大切って言うけれど、あれはきっと、そうなのだ。自分以外の誰かを知るための基盤は、最初の両親との出会いで培ったものなのだ。何で喜び、何で怒られ、何が人として正しいか。
最初って、子供にとって大切だ。0からの教育って、一番難しいのだ。基盤を作る、土台を作るのが両親のつとめであり、義務だと思っている。

昔、わがままをいったわたしに、「じゃあよその子になりなさい!」と母が叱った。
よその子に、なれるのだろうか。なれるのだったら、一度なってみたほうがいいのだろうか。
いいことも悪いこともたくさんあったけど。親には感謝しているし、いまのわたしがいるのは2人のおかげだ。
そう思える環境にいるのがどれくらい幸せか、自覚できているからわたしは恵まれていると思う。

23年生きてきて、思った。

いじめをしてきた人はずっとこれからもするし、いじめられてきた人はいじめられて当然だと自分を落とす。見てきた人はずっと見てるだけだし、見なかったフリをした人はずっと見なかったフリ。
結局、変わらない。変われない。これにあまり例外はない。

だとしたら、あの子は。
あの子は、あの子の子供は、どうなるのか。
わたしには関係ないのに、ずっとそうやって考えている。
そして、いつか自分が母親になった時、ちゃんと育ててあげられるのか、愛を伝えられるのか、そこまで考えてぐったりする。
わたしに向けて入ってしまったそのスイッチを。
どうか、子供には絶対に踏まないように、それだけしかもう考えられず、その真実を確かめることもできず。そのきっかけが子育てにないことを、ただわたしは。
それだけを考える。関係ないだろうに、考えてしまう。

今のわたしが、ありがとうとごめんなさいが言えるのは。
言うことを当たり前だと教えてくれた両親のおかげだ。
決して裕福ではなかったし、悲しい思いもたくさんしてきたけれど。
生きる上で大切なことはちゃんと教えてくれた。
強く生きていくその自信が、わたしにはある。
そう思えるまで育てるのが親の務めであると、わたしは自分の両親から教わった。

だから、自分の子供にもちゃんとそうしてあげたいって、強く思う。
自分の持っている愛を伝えて、長い人生を強く生きるということを、他人に流されず自分でいることの大切さを。
これまでの人生で得たものを全部教えて「母親」になりたいって、本気で思う。やっぱり怖いけど、いつか。
わたしは、わたしの母みたいになりたい。


あの子も、怖かったりしたんだろうか。
母性と戦って、過去や未来に想いを馳せたんだろうか。
一生、もうわたしとは関わることはないと思うから。
これ以上は、何も言わない。

わたしの目のつかないところで。
精一杯、彼女と子供が幸せになれれば良いと思う。それに嘘はない。
新しい命が、幸せになれるよう。
そう心から祈っています。
母になったあの子に。どうか、柔らかい日々を。

#エッセイ

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