見出し画像

命の数だけ「表現」がある

りんごの色って、「赤」なのだろうか。真上にあるこの憎いほど綺麗な青空の「青」って、どこまで続いているんだろうか。そんな疑問を持ったのは、小学校低学年のとある日。月曜日だかなんだかに校庭で行われるやけに長い朝礼。炎天下の中垂れていく汗に、遠くの景色がユラユラ動いている、まさに真夏の空の下。少し遠くにいる校長先生の声を聴くことに必死だったわたしはまだ幼くて、乾いていく喉を潤したい気持ちでいっぱいだった。

ぼんやりする頭の中に浮かんだ疑問。「自分の見ている景色って、ほかの人もその通りに見ているのかな」。
例えば、そう。今被っている帽子は白いけれど、これって「白」って表現であってるんだろうか。うわばきは薄汚れているけれど、この黒ずみを「汚れ」と表現していいんだろうか。自分の見ている景色が、他人からみて同じかどうかがやけに気になって、その正解がわからなくて、急にモヤモヤした思い出がある。こういうモヤモヤは、一度浮かぶと大抵消えない。
考えたって仕方がないなと思い、わたしは友達に「これって何色?」って目の前にあるものに対して聞き続けたことがある。目の前のものがどういうものかを説明しあうということを、友達とひたすらした。今思えばぶっとんでいる。友達も友達で、どうしてわたしに付き合ってくれたんだろう。面白そうにしていた彼女は、成人式で再会してから一度も顔を見ていない。今頃どうしているんだろう。
あの頃のわたしたちは、周りからどうみえていたんだろう。そんなのはどうだっていいけれど、とりあえず自分が見ている景色は、少なくともひとりの他人とは同じなんだという結論を得た。赤は赤、白は白、青は青。

その結論に満足をすると思ったのに。人を巻き込んでまでわたしは世界を探ったというのに。

なぜだか、全く満足しなかった。

表現って、なんだろう。

物心ついたときから、言葉にはせずとも心の中で思っていた。
アニメも漫画も音楽も、おもちゃも教科書も家具も。両親の言葉でさえも。なにもかもがつくられたものであると気づいたときに、とてつもない恐怖を感じた記憶がある。
「オリジナル」が求められるこの世界で、本当の意味での「オリジナル」なんて、きっとない。誰しもが何かに影響を受けて、それを吸収して発散するのだから、純度100のオリジナルなんて存在しないじゃないか。何が自分らしさだ、自分なんてものは存在しないじゃないか。苛立った思春期はあっという間に過ぎ去り、改めてそんなことをしみじみ感じたのは文章を書き始めてからだったけれど、心の奥底ではずっと違和感を感じていたんだろう。
「オリジナル」の概念を突き詰めてしまったらわたしは壊れてしまいそうで、自分らしさとか生きてきた証とか、そういうものを表すことを全面で求められたら、多分砕け散る。「表現」という言葉を人間はやけに使いたがる。芸術の果てが爆発なら、爆弾がいつ爆発するかわからないように人だっていつ爆発するかわからない。名言を残した偉人に、尊敬とちょっとだけの憎しみを添えたい。

27歳と、4か月。バンドでドラムを始めた。
これまでそれとなく音楽をやってきたけれど、今、わたしは初めてきちんと音楽と向き合っている。向き合っている、と言えるようになったのもここ最近だから、大それたことなんて言えない。だけど、なんだか最近少しだけ世界が変わった気がする。音と色が増えた気がする。幼いころのあの青空を見たら、今の私はちょっとだけ違う気持ちで「表現」するだろう。
中学から高校まで吹奏楽部にいたから、先輩から音符や音の響きについて教えてもらう時間はたくさんあった。ドラムもなんだかんだ、高校生からやってきたからブランクまみれだけど13年くらいはやっていることになる。

それでも、正式にバンドのメンバーになってから、何かが変わった。幕が開けるような大きなものではない。…この気持ちは、なんて表現したらいいんだろう。
目の前にズッキーニがあって、今までは輪切りでしか食べる方法を知らなくてそれが正解で、それで「おいしい」と言えていたのに、今はもっと違う切り方をしたくなったところ。ズッキーニが好きだから、じゃあどうしたらもっと美味しくなるのか、これまで塩で焼いているだけだったけれど、おいしくするにはどうしたらいいのか。こんなイメージ。この表現があっているかわからないけれど、書き散らかしている今とっさに浮かんだのがこういう場面だから、多分それが今の答え。

わたしにとってのズッキーニは、ドラムだ。最近自分のスネアを買った。世界に1つだけの、わたしのためだけのスネア。どこを叩いたらどういう音がでるのか、チューニングをしたらどう変化するのか、いろいろ研究しているとあっという間にスタジオの時間が終わってしまう。

NO MUSIC, NO LIFE な人生だった。
どんな時でもなにかしらの音を聴いていたい人だったから、常に耳にはイヤホンが刺さっていた。好きなバンドの曲を聴くと、自然とドラムとベースラインしか耳に入ってこなかったし、勝手に身体が動いてしまう。気分によって聞きたい曲は変わるから、プレイリストはごっちゃごちゃ。最近は雨が降ることが多いから、ペトロールズの「雨」を永遠に聞いている。

聞く側でいることで安心していたんだろう。自分が演奏をする、スポットライトをきちんと浴びることを、意識していなかった。なんやかんや、表舞台に立つのがあまり得意ではない。かといって、表に出なかった人生でも多分ない。楽器を演奏するのは好きだったし、学級委員長とかになって前に立ったりもした。でも、思い返せばどの瞬間もわたしは人からの目線をまるで命を射る何かのように感じていた。何倍も被害妄想をしていたんだろう。他人の目線の意図を大げさに汲み取って、その中にあるからかいやいじめにあたるものを、「殺意」だと思って怯えていた。

だからなんだというわけではないけれど。わたしの表現は、どこかしら歪んでいると思っている。一番やりたい「書くこと」も、なんだかどこか歪んでいて、汚くて卑屈だ。自分で言うと、そんな予防してわたしはこういう人間だから許してください!って言ってるように聞こえるかもだけど、本当にそうなのだ。自分でもわかっている。わたしは、卑屈で汚い。そうやって生きてきたから、そうなった。結果論だ。

家族の温かさも、恋人がいる幸せも、あまり信用していない。いつか壊れるのにどうして愛にすがるのかわからない。所詮他人なのに、他人に愛を求めるなんておかしいと思ってしまう。どうせ最後はひとりなんだから、ひとりで死ぬ準備をしたほうが良い。わかりあえないのが当然なのだから、他人に期待なんてしたくない。世の中お金がすべてだって思っている。生きていくためにはやっぱりお金が必要だ。なかったからこそ、そう思う。

それなのに。

人と繋がり、人の愛を知り、人の性を知り。たくさんの人の表現に触れている今。
ふとしたときに、泣きたくなる。この世界には、こんなに多くの「素敵」があったんだって、安心する。懐かしくなる。この気持ちをどう表現したらいいか迷っている自分も、また「表現者」であるんだと思い出す。

オリジナルなんてないこの世界で。オリジナルがあることを知った。
人は、人と出会うことでしか変われない。人の意見を聴こうとすることでしか、変われない。「自分は自分」を貫く意志は大事だけれど、他人の核に触れることで、人は確かに変われる。
何歳になったって、その感覚を失わなければ生きる楽しさを見失わないのだと、わたしはこの年になって改めて気づいた。

表現に自分らしさなんてないと思ってしまえばそこまでだけれど、いろんなものをみて、悔しがって、感動して、ワクワクして。そういう感情でなにかを作れるなら。
それが「オリジナル」なんだって、今なら思える。
人の数だけ感情があるから、同じものを前にして、同じ感情になる人なんていない。たとえ共感したって、掘ってみれば違う成分だらけだったりする。

だからそれでいい。そうやって、オリジナルを作ればいい。
そう思えるようになるまで、何回わたしは逃げたのだろう。

インターネットに溺れて、インターネットに殺されて。
音楽に苦しんで、音楽に癒やされて。
人に殺されて、人に助けられる。

表現に生かされて、殺されて、また生かされて。
苦しくて、辛い。自分と向き合うほど、逃げたくなる。じゃあやめてしまえという天の声を無視して今日も書きなぐって、また殺されて。生きていることを実感する。そういえばずっと思っていたけれど、文章を読むときに頭の中で再生される声って、誰なんだろう。少なくともわたしの声じゃない。この声は、だれなの。一体だれがわたしに呼び掛けているの。

怖くて、乱暴で、未知で、意地悪で。
繊細で、儚くて、脆くて、綺麗。

表現ってやつは、なんて厄介なんだ。



人の数だけ表現があるなら、その表現は全部「正解」でいい。「正解」がいい。それでいい。
人間だから好き嫌いはある。みんなに好かれることなんて到底できない。媚を売れば波風立たずにすむかもしれないけれど、伝えたいことを伝えたいならオブラートなんていらない。
あの人が嫌いなものも、わたしは好き。わたしが苦手だと思うものは、あの人が好きなもの。そんなのは珍しくない。
人だってそうだ。人間関係で悩むのは、結局好き嫌いが絡んでくるからだってわかってはいるけれど、わたしにとって嫌いなアイツは、誰かにとっての愛おしい人で。アイツにとって嫌いな人は、わたしにとって特別だったりもする。
だから、その存在に矢印が向いているものは、全部正解なんだって思う。

人間こそが、最大の作品だから。
その人間がさらに表現しようとして動くなんて。
奇抜で奇妙でなんて愛おしいんだろう。



正解も、間違い、もない。
正解と、間違い、それしかない。

世界がおかしいのは、矛盾だらけなのは、表現のせいだ。
世界が美しくて、尊くて愛おしいのは、表現のおかげだ。

大海原であてもなく泳ぐ魚のように。ゴールはいつで、どこで、あとどれくらいかなんて何もわからないまま泳ぐわたしたち。
生きている限り、感情が動く限り、どうしたってわたしたちは何かを残すためにもがくんだろう。簡単に折れてしまう爪を使って、何かを残そうと必死にひっかき跡を残すんだろう。

誰かの間違いでもいい。それが誰かの正解かもしれないから。
エゴでもひとりよがりでもいい。甘くてもしょっぱくてもいい。
伝えたいことを、ただ叫べばいい。どんな形でも、自分が信じる形で伝えればいい。そんな思いで書いたこの記事は、いったい何色なんだろうと思う。きっと何色でもなく、何色でもある。


表現の数だけ正解がある。
そんな世界で生きられることに、恐れと同じくらい感謝をします。
もっといろんなものを見たい。触れたい。聞きたい。
死ぬまで表現者でいたい。あなたの表現を、わたしはもっと見たい。

表すために、生きてみようじゃないか。現すために、死のうじゃないか。

りんごは赤くなくていい。空は青くなくていい。
見たままでいい。それでいい。

命の数だけ、表現がある。


いつも応援ありがとうございます。