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【337日前】パラリンピックの光と陰

妻note。妻は感じたことを言語化する能力がかなり高い。「大会の全体像をこんな風に感じているんだなあ」と感心している。

今日は妻noteを読んでの私なりの見解を。
パラリンピック=ハイパフォーマンススポーツ」である必要性について言及する。

パラスポーツの階層分け
パラスポーツは階層分けが難しい。
その理由として、障害を持つという条件に加え、障害の程度でクラスが分けられるため、競技人口が多いとは言えないからだ。大会を成立させるために日本一を決めるチャンピオンシップでさえ、競技初心者とパラリンピックメダリストが同じ土俵で勝負をしている。

当然その中では、同じ大会に出ている選手でも個々人のパフォーマンスのレベルには大きな差が出てくる。そのためにパラスポーツの大会をどう観たらいいのかわからない問題が出てくるのではないかと私は仮定している。

一般的なスポーツ大会はカテゴリー別、レベル別の大会が当たり前と言っても過言ではない。一つの大会でも類似するパフォーマンスが前提なので、その中で勝負観を楽しむことはできる。

パラスポーツをエンターテイメントとするためには、まずはパラリンピックの価値を高めていくこと、そしてハイパフォーマンススポーツとして評価される必要があると考えている。

パラリンピックの光と陰
「障害者=パラリンピアン」という図になることは避けなければならない。

パラリンピアンの主なイメージと言えば、「逆境から這い上がった」「困難から立ち直りチャレンジ」「スーパーヒューマン」などであろうか。

これは障害の個人モデルの話であり、障害は個人の問題である論から脱却できないどころかむしろ強調してしまっている。本来は、障害を持つという意図せず社会的不利な状況となった人たちを個人の問題ではなく社会の問題としてどのように解決していくかが重要なのである。

パラリンピアンの活躍は、一個人の活躍であり、障害者を代弁するような活躍ではないと私は考えている。(もちろんパラリンピックが注目されることでパラリンピアンの露出が増え、障害をテーマに議論される場が増えたことの意義は大きい。)

パラリンピックにスポットライトが当たることで、光の部分が理想郷のように切り取りられ、「障害」に関わる社会問題が陰に隠れてしまわないか。たしかにパラリンピアンはアスリートであり、障害者の側面を持つ。その事実は変わらない。しかし、評価のされ方がアスリート要素よりも障害者要素が勝ってしまうことが社会的違和感を生んでしまう。

障害を持つ人すべてがハイパフォーマンススポーツを目指すわけではない。むしろスポーツに取り組む人もごく一部で、その中でもごくごく一部のパラスポーツトップ層のみがパラリンピックにチャレンジしているのだ。

私を含むパラリンピアンはあくまでハイパフォーマンススポーツを目指す者、アスリートへと変わっていかなければならない。


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