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福祉と援助の備忘録(2) 「エヴァには乗らんといてください」って言われても

(写真は、ダブルチェック(もう一度たしかめること)を意味しているのだろう。こんなことをしていたら、冗談ではなく強迫症になるだけである)


教育・医療・福祉の備忘録を記す福祉と援助の備忘録の2回目は、医療安全の話をしようと思う。


近畿大学医学部付属病院安全管理部教授の辰巳陽一教授というかたがいて、その講演を見る機会があったので、学んだこと、考えたことを、自分が分かるように述べる。辰巳教授は従来の責任追及型の医療安全ではなく、ポジティブアプローチという、医療の安全を前向きに考えていく方法を推奨している。なるほど陽一という名前に合ったことをしているものである。


病院の職員が医療安全管理者に対して、「嫌だな」「話をしたくないな」とネガティブな感情を抱くことは多い。

私の経験を話そう。アクシデントと呼ばれるような事故があると安全管理部門から強面の看護師が飛んできて、やたらと現場の写真を撮って行った。その人は医療安全の本まで書いており、そこには現場で気をつけるべきことが失敗事例とともに列挙されていた。私としてはその人に、患者さんと自分たちが「守られた」という印象はなく、なんか怖かった。

医療安全管理者なんて、汚れ役として押しつけられていたかもしない。この手の役割というのは表に見えない仕事も多々あるから、その管理者にも知らず知らず助けられてはいたのだろう。ただ、その後の安全管理者がとても相談しやすいかたであったので、まず安全管理者というものは、印象が大事だなと思った次第である。


安全管理者に悪い印象を抱く理由は、その役割自体が、事故を起こした当人を責め立てるように思えるからである。また実際にそうしていることもある。

事故に関与した者に「どうしてまちがえたんだ!」と延々4時間ほど尋問をする。相手が泣いたところで、「もうせんときや」と優しく言うと、相手はもっと泣くのだという。これを辰巳教授は「名人芸」と称する。

かの、りゅうちぇるが言ったとされる名ゼリフ、「泣くまで叱らなきゃだめなんですか?」とでも言いたいようなシチュエーションである。そう。泣くまで叱らなきゃ収まりがつかないのだ。まちがったことに対して、「取り繕い」のためのパフォーマンスだから。罪と罰は大前提だ。


「失敗しないのがプロである」

「良い医療者はまちがえない」


これらの「思い込み」は強力にはびこっている。プロだから失敗するのにも関わらず、だ。

「良い医療者はまちがえない」を信じ込むと厄介なのは、まちがいが起きたときに、「その医療者は悪い医療者である」と、善悪の問題に帰されることである。この言い方でもまだ控えめで、現場のニュアンスは「まちがえるようなヤツは人間じゃねえ!」に近い。

だから安全管理者のもっともらしい役割が、「反省を求めること」になってしまう。「なぜ患者が転倒した!」と問い詰めて当然となるのだ。


「歩行訓練をする以上、一定のリスクで転倒は起こります」


「地球に重力があるからです」


こういう正しい言い分は「ふざけるな!」と論外になる。研修で、「責任追及が安全を脅かす」ということをしっかり学んでさえ「いや、やっぱりプロは失敗しない」などと平気で言う。もはやそう思っていることこそが、安全管理者の存在意義でさえあるかのようだ。だが、なにが「やっぱり」なのだか分からぬ。都合の悪い真実から目を背けているだけである。


反省を求めるとどうするか?次は「反省する以上は対策も考えられるはずだ」となる。そういった医療安全の策を、インシデント・アクシデントレポートと言った報告書を通して、まちがいを犯した当人に求めていくことになる。だが、責められる文脈の中で大した対策が出るわけがない。まちがいを起こさない方法を尋ねる相手の選びかた自体にまちがいがある。

おかげで「ダブルチェックをしっかりする」「トリプルチェックをする」などと、ろくな意見しか出ないこととなる。「しっかり」とはどういう意味か。安全を実現する上でいちばんやってはいけない根性論となる。安全管理は見事に失敗する。



「人はまちがえるものである」これは安全学の大前提であるが、ここから医療安全が考えられることは稀である。フールプルーフといって、まちがえたくてもまちがえようのない配管システムを作るなど、まちがえることを前提とした安全システムも一部あるが、こういったものが新たに生み出されることは、インシデント・アクシデントレポートには期待できない。

始末書の性質を帯びているレポートにおいては、フールプルーフを対策として書くことは、


「最初からこんなシステムじゃなければ、私もまちがわなかったのになあ」


と、己の責任を棚上げするニュアンスを受け取られてしまうだろう。抜本的な改善策を書くほど、「反省していない」と却下される可能性が増す。そもそも責任追及されている人が、そんな柔軟なアイディアを思いつく余裕はない。


私は叫びたい。


「責めるだけならサルでもできるわい!」


そして後ろからまた綾波レイに言われる。


「それはあなたも同じでしょ」


そうだ!ポジティブなアプローチの話をしているのに、旧い安全管理のありかたを悪く言うってのはどうなんだ?


どうすればいいかという話をすることが大事だ。だが、それははっきりと分かっているわけではないという。ただ、ネガティブなやりかたでないやりかたをすることにはなるだろうということだ。たぶん、ネガティブなものをひっくり返すことになるだろう。


責めるの反対は?失敗の責任追及の反対は?そう考えていくのは、とても楽しそうだ。


じゃあブレインストーミングをしてみたい。私はそういうのを考えるのが好きだ。たとえば転倒予防にはどんなことが考えられるだろう?

重力があるから転ぶ。じゃあ重力をなくせば?うん、こういう考えは楽しい。いっそそれをもっと非現実的にしよう。むしろ浮き上がるようにさえしてしまえば?

これを少し現実的にすると?浮くと言えば水だ。水中ですごせば?うん、少し現実的になった。さらに現実的にする。患者さんが日中はプールで過ごす、というのは?

いい!つまづいてもふわりと浮かぶだけだ。しかもリハビリ中の人ならば、プールで歩くのは負担をかけずに筋力をつけられる。なにより楽しそうだ。筋力がつけば、日常的な転倒リスクそのものも減る。

実は筋力をつけるということ以外に、転倒予防で効果ありというエビデンスのある取り組みはない。


たとえばこんなことだ。転ぶ理由に「地球に重力があるから」と考えた人のほうが、こういう発想にいたりやすいんじゃないだろうか?


Ver 1.0 2021/4/12



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