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「チュニジアより愛をこめて」 第4話

 
 ホテルのメイン・レストランで朝食をっていると、隣の席の男性が声をかけてきた。おっとりした雰囲気の小柄なアジア人で、年齢は三十半ばといったところだろうか。こちらをほっとさせずにはおかない柔和な微笑みをたたえていた。
「洞窟のようなレストランですね」
 男性はいきなりこう言った。そして、向かいの席に座ってもいいかと尋ねるように、椅子の背もたれに手をあてながらちらっとこちらを見た。
「どうぞ」
 特に断る理由もなかった私は、軽い気持ちで彼の申し出に応えた。チュニスに着いて以来、西洋人の観光客やチュニジア人ばかりを見ていたので、ここで降って湧いたようにアジア人と出会ったのは、不思議な感じがした。しかも彼は、見たところ中国人か韓国人のような、私に近い人種のようだ。ただ、その醸し出す雰囲気と英語の独特のなまりから、日本人ではないということだけはわかった。
「チュニジアに来て、色とりどりのタイルや装飾のほどこされたドア、メディナの人混みの賑わいに慣れた目にとっては、意外なほど地味な内装ですな」
 席に腰かけながら彼は言った。陽気なお喋り好きな人のようだった。
 確かに、我々のいるこのレストランは、中世に建てられたままの造りを最大限に残し、更に随所にカラフルな装飾を施して壮麗に仕立て上げたこの雅びやかなホテルの中ではむしろ異彩を放っていた。むき出しの花崗岩のブロックを無骨に積み重ねたような太い柱の上部は、天井に向かって美しいアーチを描いているものの、ゲストルームやスパなどの他の施設にはふんだんに使われている精巧な紋様などは一切排した、素朴極まりない造りなのだ。
 彼は私の食べているものをまたちらっと見て、メニューを開き、少しの間考えてからウェイターを呼んだ。そして、流暢な英語で幾つか質問を交えながら、長々と細かな要求をして、注文を終えた。
「独り旅だと、どこまでも我儘わがままになれますね」
 作為的な含み笑いを浮かべて彼は言った。笑いを誘うようなその言い方が絶妙で、しかもわざと図々しさを強調してあっけらかんと開き直っているので、私は思わず笑って口を開いた。
「そうですよね。確かに、ホテルの人は大抵のことには対応してくれるでしょうし、一緒に旅行している人に気を遣う必要もないんですもんね。それって、独り旅ならではの楽しみかもしれませんよね」
 彼も同意して、笑った。二人の間に、友好的なムードが流れ始めた。私達は、互いに自己紹介をした。
 
 台湾から来たリウ、と、彼は名のった。普段は家族や友人とツアー旅行に行くことが多いのだが、何年かに一回、ふらりと一人で旅に出たくなるという。
「それも、普通台湾人があまり行かない遠くの国とか、辺境の土地とかに行くんです」
 最初に運ばれて来たコーヒーに、スプーン三杯もの砂糖を入れながら彼は言った。私が可笑しそうにそれを見ているのに気づくと、慌てて言い訳をした。
「チュニジアのコーヒーは、濃くって……。アラブ式のコーヒーですからね、カップの下に粉が溜まっているくらいの」
「そうなんですか。ここに来てまだコーヒーは飲んだことがなかったです」
 私は言った。着いて早々ワインを一本空けてしまった罪悪感からか、まるで罪滅ぼしのように今朝はミントティーを注文したのだった。
 すっかり甘くなったコーヒーを飲みながら、彼は旅の話をした。主に中南米の国々を周っていたという。
「素晴らしかったですよ……。土地、人々、食べ物……。それに、空気が違う。空気の匂い、、がまず全然違うんです。標高の高いところ、海岸沿いの集落、湿地帯、大平原……。あんなに色んな匂いに満ちた大陸はまたとないでしょうね。いや、実に楽しかった。台湾にあるものは何ひとつありませんでしたが、台湾にないものが全部あそこにはあった」
「一番心に残っている場所はどこですか?」
 運ばれて来たばかりのブリックにナイフを入れている彼に、私は聞いた。揚げたてのパリパリした生地の切れ目から卵がとろりとあふれ出すのに任せたまま、途端に彼は膨大な記憶の旅に出て行ったようだった。……たっぷり三十秒ほど考えた後で、まるで美味しいものでも味わうかのように、愛おしげに彼は話し始めた。
「……メキシコのあるところに、ごめんなさい今はその街の名前を忘れましたが、信じられないほど綺麗な夕焼けを見ることのできるところがあるんです。それは色といいスケールといい、言葉で言い表せるものではありません。あれだけは、行ってみないとわからない。他の土地でも、沢山の美しい夕焼けは見ましたよ。でもその全てをひっくるめてみても、あれは、決定的に違った。……勿論、その時の私の置かれていた状況とか、私自身の心理状態も影響していたのかもしれない。それは大いに有り得ることです。けれど、あの時は……あの時間は、はっきりと特別なものだった。その時私はレストランにいて、夕食を食べていました。そこには他にも沢山の人がいて、私と同じように食事をしていました。すると、大きな窓の向こうに見えていた山脈が、段々朱色に染まり始めたんです。空に表れ始めたそれはどんどん濃くなって行って、果てしなく横に広がるスクリーンの上で、何かものすごいショーが始まるかのような高揚感を引き起こしました。――それは、まるで巨大な絵画の傑作を見ているようでもありました。そして、時間が経つごとに、少しずつ自分がその絵の中に入り込んでいっているような感じがしてきたものですよ。……夕焼けはどんどん迫ってきて、レストランのテーブルや座席を赤く染めていきました。その場にいた誰もが、黙ったまま、食い入るようにその様子に見入っていたんです。やがてそれは我々全員を包み込み、圧倒しました。我々は完全にその自然現象の織り成すショーの一部になっていました。その時私達全員が同じ感情を覚えました。ものすごい勢いで押し寄せてくる幸福感です。それはどこからやって来たのかわからない、けれど確実に私達を飲み込んでいました。何人かの人は湧き上がる感情を抑えきれず涙を流していました。実を言うと私もその一人です。……その時私は人生におけるある悩みを抱えていたんですけれどもね。そんなものは吹っ飛んでしまいました」
 そこまで一気に話すと、満足したように彼は初めて切り分けたブリックを口に入れた。その夕焼けを見ることによって、人生が変わるような経験をしたと彼は言った。後で別の街に着いた時、街の人にその話をすると、彼らはその夕焼けのことを知っていた。「魔法マジック時間アワー」というんだそうですよ。メキシコの言葉で、〝Horaオーラ magicaマジーカ〟。その土地では、大昔から、不思議な力を持つ夕日をあがめていたという。オリーブとトマト、ブリックを交互に口に運びながら彼は喋り続けた。私はウェイターを呼んで、チュニジアン・コーヒーを頼んだ。食事を終えていたので、彼の話を聞き続ける為に、何か飲み物が欲しかった。
「とても興味をそそられます。私もいつかそこに行ってみたいです」
 私は言った。眼前に、メキシコの切なくなるような夕焼けが浮かぶ気がした。
「きっといつか行けるでしょう。……けれど、おそらく、あの「魔法マジック時間アワー」の夕焼けが、あなたを呼ぶ時まで待たなければならないでしょう」
「そうなんですか?」
「はい。あそこは、呼ばれないと行けない場所です。……実は、あの体験の後、不思議な力を私は授かりましてね。超自然的なものが見えるようになったんです。……それがこうじて、今は占い師を生業なりわいとしています」
占葡師チャンブーシー
 フォーチュン・テラー、と英語で言った後、彼は台湾語で言い直した。思いがけず耳に飛び込んできた、その抑揚の効いたリズミカルな発音は、しばらく前、ボルドーのワイナリーである人が中国の漢詩をそらんじたことを思い出させた。郷愁のような、切ない感情が私を捕らえた。ああ、彼は今どうしているのだろう……。けれどそう思ったのも束の間、占い師というその言葉に、私は少しひるんだ。急に彼が、胡散臭い詐欺師のようにも、それとも逆に、神々しいオーラを放つお告げ人のようにも見え始めた。
 けれどそのどちらもが、今の私には、警戒を要する存在であった。私は今、旅先で騙されるわけにも、これからしようとしていることを見透かされるわけにもいかないのだ。
「どんな風に占うのですか?」
 牽制するように、私は聞いた。ひと口飲んでみた砂糖なしのチュニジアン・コーヒーは苦かった。
「まあ、色々ですよ。名前・生年月日・生まれた場所等を聞いて、それを基に占う場合もあれば、易者のようなことも。台湾にいる時は、私は鳥も使います。後は、霊視的なことも」
「……私は、あまり占いは……」
 そわそわし始めた私を、劉はじっと見据えていた。私のことを、霊視し始めたのかもしれなかった。やめてやめて……。私は必死で抵抗した。心の奥を暴かれるのは勘弁してもらいたかった。
 ――と、その時、テーブルの上に伏せて置いていた私のスマートフォンの着信音が鳴った。救いを求めるように私はそれに手を伸ばし、裏返して見た。
 そこには、彼からの返信があった。反射的に、私はそれを開いて読んだ。
 
「ハイ。元気だよ、ありがとう。チュニスのどこにいる?」
 Hi. I’m fine, thx. Where r u in Tunis?
 
 私は舞い上がって、即座に返信した。
「メディナの真ん中。あなたはどこに? 私に会いたい?」
 I’m at the center of medina. Where are you? Do you wanna see me?
「失礼。もう行かなくちゃ」
 私は急いで立ち上がった。慌てて動いたので、席を立つ時テーブルに脚をぶつけた。
 そんな私を、劉はまだじっと見つめていた。……何か感じているようだ。彼に気取られない内にと、私は素早くバッグを手に取り、引きつった笑顔を浮かべながら別れの挨拶をした。
 劉はそんな私を見上げながら、こう言った。
「少し前に、大失恋をしましたね?」
「は?」
 彼の突然の言葉に、私は呆然とした。
「そのことを、だいぶ引きずっておいでのようだ」
「ええと……。だとしたら、どうなんです?」
 私は咄嗟とっさにこんな風に聞き返していた。あまりに突然のことだったので、どう切り返していいのかわからなかったのだ。劉は間髪入れずに言葉を継いだ。
「つい最近か……、……前のことだとしても、少なくとも過去3年以内のことですね」
 私は気色ばんだ。その先に彼が何を言うのか、怖くなった。
「私本当に、もう行かなくちゃ。失礼」
 振り切るようにその場を離れようとする私に、彼はにっこりと微笑んでこう言った、
「大丈夫。何もかも、上手くいきますよ」

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