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「でんでらりゅうば」 第18話

 しずばあの住む家は、村の北側の、大森神社にもっとも近い地所に位置していた。南側にあるよし婆の家に比べると日も射さず見るからに寒々しい、大きな古い日本家屋だった。星名せいなの分家やけんね、造りが大仰たい、とはつ婆は言った。
 その家の、暗い廊下を突き当たった一番奥の間に、静婆はせっていた。日中面倒を見る者もいないらしく、部屋まで案内してくれた撥婆が安莉を暗い座敷に招き入れてから声をかけて帰ってしまうと、しんとした広い静婆の居室には、安莉と病弱な年寄り婆の二人だけになった。部屋には樟脳しょうのうと、びん付け油のような老人に特有のある種の臭気が立ち籠めていた。
 床の間の前に横向きに敷かれた布団のなかに横たわっている静婆は、安莉を認めると目を閉じたまま枕から少し頭を上げた。体の左側を下にして寝そべり、こちらを向いている婆の顔は能面のような細面で、薄闇のなかでほのかに青白く光って見えた。表面に細かい無数の皺が寄ってはいるが、つるりとした凹凸のない造りは、若いころは美しかったに違いない。長く伸ばした髪は染めているのだろうか、不釣り合いに漆黒の色を呈していた。
 その不気味で神秘的な婆は、聞こえるはずのない何かひそかな音を懸命に聞いているかのように目を閉じたまましばらく耳を澄ませていたが、やがて肘をついて身を起こし、まだ半分伏せった姿で安莉に話しかけた。ようやく開いた両目の瞳は白内障なのか白く濁って、ほとんど見えていないようだった。
「あんたが……。低地から来たっと。ご苦労さんでございます」
 頭を下げる婆に安莉がかしこまって畳に手を突き挨拶を返すと、静婆は色のない唇を歪めてフフフフ……と笑った。目はめしいているが、聴覚は異常なほど澄んでいるようで、安莉が畳の上で身じろぎする音で安莉のいる位置を認識しているらしい。
 ――宰婆にしろ由婆にしろ撥婆にしろ、そしてこの静婆にしろ、これほどまでの長きを生きながらえてきた女たちであるから、どこか一点、人より突出して秀でた部分を持っているのだろうな……。言いようのない怖気おぞけを感じていた安莉は、その感情から逃げ冷静でいられるように、強いてこんなことを考えていた。
 再び懸命に、誰にも聞こえない何かに聞き入るように目を閉じた婆は、細かく瞼を震わせていたが、やがてゆっくり目を開くと、まじないか予言を口にするときのような一種独特の抑揚を帯びた声で、ひとり語りのようにこんなことを言った。
「竜のそんのことを聞きたいとやろ? ……竜の孫はな、色々あっとよ……。それも、極端にな。異常に美しいんが出たり、頭んよすぎるんが出たり。どうしようもないほど体ん弱いんもでくる。けどな、一番困るんが、醜う生まれてくるもんよ。それはもう、人間やなか。星名にはたまーに出る、こいが困りもんよ。そいが双子ん場合は、なおややこしか。双子んときは、どっちか一方が美しゅうて、もう片方が醜い。これは決まっとる。竜の法則じゃ」
 安莉は大森神社の境内で聞いた澄竜の話を思い出していた。〝竜の法則〟。澄竜の双子の兄は醜く生まれているということか。
「澄竜さんは、双子だということですが……」
 おずおずと、安莉は聞いた。すると静婆は大きくうなづいて言った。
「澄竜か。ほうよ、あれは竜のこっぽねたい。ほんで、あれの兄か。きみたつのことか。……むげねえことやけんのう、あれはまっこと醜い。二目と見られん醜さたい。やけん人目に晒さんよう閉じ込めとる」
 ほっほっ、と、静婆は残酷な声を上げて笑うのだった。
「……でも……。その、公竜さんは、星名家の大事な息子さんなのではないのですか?」
 醜い醜いと言っても、公竜という人は長男であり、星名にとって大切にすべき跡取りとなる存在のはずだ。安莉はそう思って言った。
 すると静婆の白濁した目玉は益々その胡乱うろんさを増し、上下左右に不規則に動いた。そして静婆はこう言い放った。
「大事なことがあるかい。あげんできそこない、、、、、、、阿畑に言うて取りにこさせればよかったたい。あれん母親が、いらん情けばかけよったっけん、命だけは助けてやって座敷牢んなかにおらせとうらしいけど、何のために生かしとくかね。ほんなこつ生まれてすぐ、阿畑に渡して連れていってもらえばよかったとに」
「お婆様、その『阿畑に渡す』っていうのは、どういう意味ですか?」
 安莉は空恐ろしく思いながらも、聞いた。
「阿畑はおかし、、、たな、、赤子がでけたらまあ、取りにくんのが渡世とせいの家たい。あんたは知らんかろうけどな。あらあサンカ、、、よ、背振り、、、。わからんかの?」
 サンカとは何か。背振りとは何か。安莉はまったく知らなかった。静婆が教えてくれたことには、この戸丸村ができた時分にはもう創設者たちのなかに存在した、元々は深い山奥や川岸を転々として暮らす、放浪民の集団であった。
「背振りちゅうな、こう簡単な木の柱を組んで、布で張ったテントのようなもんを家にして住んどったていうたい。そりゃあわしも見たことはなかっけど」
 阿畑家は、村創設のときにメンバーに加わったサンカの子孫の家系だということだった。この村には歴史書などは残されていないが、代々口承によってそれぞれの家の歴史は違わず伝えられてきた。なので現在でも阿畑家の者は皆、祖先の仕事について知っているし、その血族であることを肝に銘じて活動しているという。
「私がこの村に来るときに色々とお世話してくれたのは、阿畑さんでした」
 安莉が言うと、ほお、ほお、と静婆は口尻を上げながらうなづいた。
「阿畑は今でもそれ相応の働きをしっかりやっとったいね。下ん村ん役所に出て、対外的なことはみーんな引き受けよる。昔っから、あん家ん者は知恵者やったたいね」
 満足げな声色になって、静婆は言う。
「今でもおかしな赤ん坊ができたら、阿畑家の人が引き取りに来るんですか?」
 背筋を寒くしながら安莉は問うた。
「そらそうたい。それが阿畑ん渡世たい」
 こともなげに、静婆は答えた。
「……どこに連れて行くんです?」
「…………」
 静婆は、盲いた眼球をギョロリと巡らせ、安莉の方に首を伸ばしてきて言った。
「誰も知らん」
 そして目を閉じ、黙り込んでしまった。

 
 外では雪が降り始めていた。夕刻が近いはずだが、今日は朝からにび色の曇り空が続いていて、時間がわかりにくい。静婆が黙ってしまうと、しんと静まり返った村の通りに、雪の降り積もる音が聞こえはじめた。
 さっ、さっ、さっ、さっ、と、その小さな音は均等な間合いを置いて、規則的に続いた。
「降り出したない」
 目を閉じたまま、静婆が言った。
「はい。ではそろそろ、おいとましようかと思います」
 安莉は畳に指をついて、丁寧に頭を下げた。
「……そうやねえ……あんたも、雪が積もらん内に、こんなとこから早よ逃げ……」
「逃げる? ……逃げるだなんて、そんな……」
 安莉は静婆が自分の座敷を〝こんなとこ〟などと冗談を言っているのだと思って笑いながら答えた。だが、静婆は顔を強張らせて、もう一度目を開いた。どこを見ているのかわからない盲いた白い目が真っ直ぐに安莉の目をとらえ、引き絞るような声が聞こえた。
「逃げらるっかな」
 その瞬間、薄暗い座敷にようやく届いていた日がかげり、ひと際暗い影が床の間の前を覆った。つるりとした真っ白な静婆の顔が、闇のなかに埋もれていった。

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