丁寧に生きて、豪快に死ぬ。
小さな不法横断をやめてみる。朝のベッドメイキング。たった20分のランニング。ここ数ヶ月で、私が始めたライフハックたち。
向こう岸に渡りたいときは、数百メートル先の信号を使う。起床したら、布団を必ず天日干しして、カバーのしわを伸ばす。20分だけ走り、汗を書く。
当たり前にやってきた人からすると、大したことではないのかもしれないが、雑に生きていた私からすると、着実な変化だ。
雑に生きてきた27年間
現在28歳の私は、つい最近までだいぶ雑に生きていたと思う。特に、23~24歳の2年間はひどかったような気がする。
上記の自己紹介noteにも書いてある自分探しの2年間から引用する。
夜勤の仕事をしていたので、寝るのは6時。起きるのは12時。お金はないので、毎日はなまるうどんのかけうどんばかり食べていた。しかも揚げ玉もりもり油のオンパレード。そのくせ、飲みに誘われたら、浴びるように酒を飲み、死にそうになりながら1日を終える。
そうすると体にしっかり不調になる。肌は荒れるし、お腹は壊すし、体調はしょっちゅう崩す。そんなストレスフルな生活を送っていると、心にまで影響が及ぶ。ちょっとしたことでイライラする。他人にあたる。
そんな余裕のない生活をしていると、人がどうなるのか。
結論、他人を軽んじるようになる。というか、他人を思いやる余裕がなくなる。その結果、当時同棲していた女性からボロカスに言われ、お別れすることになった。自分の至らなさ、愚かさ、弱さが当時、最も身近にいてくれた人を傷つけてしまった。
雑に生きることの一番の恐ろしさは、ゆでガエル状態であることだ。つまり、他人を傷つけ、自身を蝕んでいることに気付かない。なぜなら、それが当たり前だから。肩こりの人が肩こりの辛さに気付かないのと同じ。だけど、そのツケは必ずどこかで支払うことになる。そうなってからでは遅い。
そのツケはあまりにも大きすぎた
私が、雑に生きていた過去の私と決別することを決めた明確なXデーがある。それが、2020年2月8日。母の命日だ。母の死そのものはもちろん、大きな痛みなのだが、私の場合、それ以前の自身のふるまいが、人生を悔い改めるキッカケになった。
ちょうど2年間の自分探しが終盤を迎え、なんとか現職から内定をいただき、これからついに社会人になるというタイミングだった。母からすれば、ずっと東京でプータロウしていた太郎が、ついに定職についてくれるのだから大きな安心材料だったと思う。そんな母からの心配をよそに、私は変わらず、ヘラヘラ生きていた。というか、母からの心配を受け止める余裕がなかった。
私は、母からの連絡をずっと既読無視していたのだ。今でもそのLINEの履歴を見ると、心が痛む。返信をすることがないまま、母は旅立ってしまった。
善く生きる
当時からの私のテーマだ。ただ、この本質にたどり着くまで3年以上かかった。最後に、このテーマに関して、深掘って終わる。
「善い」という言葉を調べてみるとたくさんの意味が出てくる。その中でもある書籍の一文が印象的だったので引用する。
つまり、自分をかわいそうだと思わず、律する心を持ちつつ、他人に親切でいることが【善く生きる】なのである。
ではなぜ、人は善く生きることができないのか?
言葉にすれば、当たり前に思えることができないのか?
「なぜ、自分ばかり、、、」と嘆いてしまうのか?
他人に親切でいられないのか?
たぶん、余裕がないから。これに尽きる。
そして、余裕のない状態を作っているのは、他でもないあなただ。もっと言うなれば、あなたの日々だ。毎日だ。あなたの日々の一挙手一投足が、あなた自身の余裕のない日々を形作っている。もちろん、きっかけはあなた以外の何かかもしれない。でもそこから余裕のない状態をつくっているのはあなた。例えば、以下のようなループ構造をイメージしてほしい。
言いたいことは2つ。
①一度負のループに入った瞬間、何かを変えないと永遠にそのループから抜け出せない※黄色いループ
②その「何か=レバレッジポイント」を作り出すのは、他でもないあなたの意思と行動である※赤い付箋
余裕の有無、善く生きるor生きない。どちらもあなた次第だということ。あなたの善い日々の積み重ねであるということ。
だから丁寧に生きる。
結局は、善い食事、善い運動、善い睡眠。これら全てを含めた善い行動。それらを支える善い心。丁寧に積み重ねることが、善く生きることだ。
人の身体は、食ったものでできている。使わなきゃ錆びる。休めなきゃ壊れる。至極当然のことだ。
そして最も重要な結論がある。
これら全ては自分でコントロールできるということだ。
この世には、理不尽な不可抗力が溢れている。それらをどうにかしようなんて考えても、時間の無駄だ。他人にイラついても、やるせない出来事があっても、常に自分がコントロールできることに目を向ける。それが丁寧に生きることであり、善く生きることだ。
自分が変われば、世界は変わる。
世界が変われば、あとはもう豪快に死ぬだけだ。
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