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「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」と人は言うけれど、、、

「ボクの人生はどうせ、親が決めるんです。」
「出来の悪いボクは、いつも兄を比較されて、、、」

先日、私がメンターとして参加したある中学校の自己探究授業での一幕。
中学1年生の彼は、自暴自棄ぎみにそう放った。
私は、悲しみと怒りが入り混じった複雑な感情になった。

でも彼は、授業中ずっと、そうだったわけではない。
彼は突然、私にこう問うてきた。

「100番以降の数字で、好きな数字を教えてください!」

私は慌てながら、とっさに「123番!」と適当に答えた。
そうすると、彼はニコニコしながら、「ストライクですね!」と答えた。

ポケモン図鑑No,123 ストライク

ポケモンが大好きで、会ったばかりの私に対して、無邪気に問いかけてきてくれた。そんなピュアで素直な彼は、人生の舵を握らせてもらえていない。

自己肯定感は、自己選択感だ。自分で選ばない人生は、上手くいかなければ、他人のせいにしたくなるし、上手くいってもそれは他人の手柄のように思えてしまう。私はとにかく、悲しみと怒りと、自分自身の不甲斐なさを感じていた。

では、この感情の矛先はどこに向いているのか?
親か?それもあるけど、それだけじゃない。
自分か?それもあるが、自分だけでどうにかなることでもない。

たぶん、社会だ。
親だけのせいではない。彼に希望を持たせることができていない学校にも責任がある。彼にきっかけを提供できたいないメンターのボクにも責任がある。厳しいようだけど、自分の人生を舵を握れていない彼自身にも責任があると私は思う。

つまり、全員に責任があり、その集合体である社会に責任がある。
今回の問題の原因と解決策に関して、教育の切り口から書いてみる。

日本の教育を変えたい20代の同志たち

に何かしら届く文章にする。

なぜ、毒親は生まれるのか?

毒親は、大きく4つのタイプに分類されるそう。

  1. 過保護・過干渉タイプ

  2. 放置・無関心タイプ

  3. 支配・管理タイプ

  4. 虐待タイプ

今回のケースにおいて該当するのはおそらく、1また3。ではなぜ、子どもの人生に過干渉し、支配しようとするのか?私が思うに、主に3つの理由がある。

①自分の人生に不満があるから

自分の人生が、満たされていたら、他人に求めたりしない。「子どもには、満たされた人生を送ってほしい」という願いが強くなりすぎた結果、いつのまにか育児が、自分を満たすツールになってしまう。

メンタルモデルという考え方がある。

誰もが無自覚に持っている「自分は/世界はこういうものだ」という人生全般の行動の起点になっている信念・思い込みを意味する言葉だ。またメンタルモデルは、4種類ある。

  1. 価値なしモデル「自分は価値のない人間だ」

  2. 愛なしモデル「自分は愛されていない人間だ」

  3. 欠陥欠損モデル「自分は上手くできない欠陥人間だ」

  4. ひとりぼっちモデル「自分はどうせ理解されない人間だ」

例えば、親が、大学受験で東大に行きたかったけど、うまくいかなくて、地元の公立大学にやむなく、進学していたとしたら、価値なしモデルになるかもしれない。このメンタルモデルと向き合わないまま、大人になると、「自分は受験で上手くできなかったけど、子どもにはそうなってほしくない」と願い、子どもに対して英才教育をする。そして、本来は子供のためだったはずの英才教育が、「うまくいかなかった自分を肯定するための英才教育」になってしまう。

※一応、保険かけておきますが、地元の公立大学を否定する意図はありません。あくまで一例です。

大前提、親になるというのは本当に偉大なことだ。子を持つ経験をしていない私が偉そうに語れることではない。一方で、親はスキルとマインドの両面で、子どもにとっての人生の先輩であるべきとも思う。人生の先輩になるために避けて通れないのが自分のメンタルモデルと向き合うことだということが、最もお伝えしたいことだ。

とても面白い書籍なので、解決策の具体を知りたい方はぜひ読んでみてください。

②教育の知識と経験が乏しいから

子どもの教育とは、ヒトのマネジメントだ。だが、多くの人はヒトのマネジメントの経験がない。育児の中で、自分なりの手法を確立していくわけだが、教育を体系的に学んで、実践しようという親はほとんどいないように思う。もっというならば、ほとんどの人は、自分が受けた教育を子どもに施す。となると、良い教育を受けた人は自分の子供にも良い教育を施すし、その逆もしかり。つまり、このぐるぐるしている教育ループの中で教育格差は広がるようになっている

善く生きない人(黄)、善く生きる人(青)のループ構造

例えば、上記を引用した場合、どこかでレバレッジ(赤)を効かせて、負(黄)→正(青)のループチェンジを起こすことは重要であり、子どもの教育におけるレバレッジポイントは、シンプルに「教育を学び、実践する努力をし続けること」なのだ。

死ぬまで勉強だ。

③サポートが整っていないから

これは社会構造の問題だ。
日本は、核家族化が進んでいる一方で、子育て経験を持つ祖父祖母と共に
暮らす三世代世帯の割合が減少しているそう。

引用:厚生労働省のデータ

つまり、「てめえの子供は、てめえで育てろ」時代になっているということだが、仮に20歳そこらで親になった男女が、二人だけの力で子どもを一人前に育てられるのか。

もちろん、できると思うが、困難な道であることは違いない。また、一昔前であれば、村社会的なノリで地域のつながりが強固だったので、近所に自分の子どもを預けて、出かけるなんてこともできたかもしれないが、つながりが希薄になってしまっている現代においてはそれも難しい。

現代の親は、自分たちの子どもは自分たちだけで育てないといけないプレッシャーと戦っている。こんな状態で経済的、肉体的、精神的余裕を持ちながら、育児・教育をできるはずがない。ちょっと子どもにつらく当たってしまっただけで、「毒親」と言われてしまっては、たまったもんじゃない。先述したが、毒親問題の原因は、親ではなく、社会構造にある

この度、共働き子育てしやすい街ランキング一位になった千葉県松戸市では、妊婦や保育サービスを利用していない2歳未満の子を持つ家庭の孤立を防ぐため、家事・育児ヘルパーの派遣支援も行っているそう。この価値は、ヘルパーという機能的価値に併せて、人と関わる機会が減ってしまっている親のコミュニケーション機会という情緒的価値だ。

このように、自治体単位で親が余裕を持てるような支援を強化することが重要なのかもしれない。霞が関だけで日本全国の教育を見切れない。地方行政に優秀な為政者を配置することが重要ミッションだ。

まとめ

義勇さんは、無口で不器用だけど、愛のある人なので、この言い方で炭治郎に伝わってますが、普通こんな言い方じゃ伝わりません(笑)

個人的ミクロ視点に立つならば、「自分の人生の舵を自分で握る意識を持ちなさい。以上!」という感じですが、社会的マクロ視点に立つならば、「親子という関係性に限らず、自分の人生の舵を自分で握りやすい環境をつくる」ことが、社会の一員としての私たちの役割なのではないでしょうか?


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