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(3) 【ベッシー・ヘッドとは誰か】アパルトヘイト下に生まれて(南アフリカ編②):人種差別からヒンドゥー哲学、そしてジャーナリストへ

白人の母親と黒人の父親の間に生まれた自らの出生の真実を知ってしまった13歳のベッシー・アメリア・エメリー(ベッシー・ヘッド)。セント・モニカから高校へ通い、教師の資格をとって教員となるも時は1950年代後半。教育の世界においてもアパルトヘイトの現実は過酷で、やがて教師の職を辞してジャーナリストとして生きていくことになる。そして彼女はヒンドゥー哲学に出会い知的土台を形成していくこととなる。ここでは、学校を卒業したベッシーが教員となるも、やがて退職しダーバンを去ってケープタウンに向かいジャーナリストとして生きるようになる時代を見ていく。

1.  出生の秘密を知ってからセント・モニカを去るまで

1952年7月、セント・モニカに入ってから2年半後、ベッシーは最初の帰省を許され自宅に帰る。その時初めて、それまで実母と信じていたネリー・ヒースコートに対して、重すぎる事実について尋ねた。「お母さんは、本当のお母さんなの?」その問いに「いいえ」と答え、ネリーは涙をこぼしたという。

1954年になると、これまで厳しい教育方針を貫いてきたセント・モニカ学長のファーマーに代わり、マーガレット・カドモアが赴任する。この人物が、のちのベッシーに大きな影響を及ぼした重要人物の一人である。第二次世界大戦中に看護師として働き、婚約者の戦死をきっかけに宣教師となった後にセント・モニカにやってきたカドモアは、学校の雰囲気を大きく変えたという。ユーモアのセンスがある常識的な人物で、規則で縛られてきた生徒たちはこれまでと打って変わって自由な生活になったと言われている。

その頃、セント・モニカからウムビロ・ロード高校(この頃Bechet High Schoolに名称変更)に通っていたベッシーのことを、カドモアはとても気にかけていたという。図書室の本を全て読んでしまったというベッシーは、今度はカドモアの蔵書を読み始めた。そんなベッシーにカドモアは、W.B.Yeatsの詩の解釈についての理解が不足していると指摘し本を取り上げ、想像力を駆使させてスケッチをさせるなど、特別指導を施したという。のちにベッシーは、この時の指導を自分は文章に役立てていると語っている。

1971年に出版された自伝的小説『マル』の中心的登場人物に、ベッシーはマーガレット・カドモアという名をつけている。これを偶然見たカドモアの学生時代の友人であったと名乗る読者が、あるときベッシー・ヘッドに宛てた手紙を送ってきた。その手紙に対するベッシーの返信には、セント・モニカ時代のカドモアの思い出とカドモアに対するベッシーの思いが綴られている。

小説に描いたほど彼女との近い関係はありませんでしたが(注)、彼女の人柄を私はとても愛していました。生き生きとして気まぐれで自由な人はいつも忘れられない深い印象を残してくれますし、私はとても惹かれるのです。(中略)私が過ごしたその孤児院(セント・モニカ)の女の子たちは、望まれない子どもたちで、皆赤ん坊の頃にやってきて親が誰なのかも知らない子たちでした。外の世界を知らずに18歳になるまでセント・モニカで過ごし、たいていはメイドとして送り出されるのです。そして男性がどんな存在なのかも知らないままに2ヶ月も経たないうちに妊娠してしまう。彼女(カドモア)はこの手の話にはとても気さくで、戦争中に自分が愛して亡くした男性のこと女の子たちに語るのが好きでした。それはまるで、「大丈夫、誰しも情熱はあるものです。分別のある行動を取るべきこと。何も恥ずかしいことはありません」とでも言うような態度でした。このようなことがあって、私は彼女を敬愛し、理想としました。(Dr. C M Cusden宛て書簡, 24 May 1972, KMM BHP149)
(注:『マル』の中で中心人物である「マーガレット」は赤ん坊の頃に宣教師である<マーガレット・カドモア>に拾われ、同じ名前を与えられて育てられる。同じ名前を与えるということ自体も、実の母親と同名を持つベッシーによる何らかの思いが込められているとも想像できる)

セント・モニカを去った後でも、ベッシーは何年にも渡り度々マーガレット・カドモアに手紙を書いて近況報告をしている。

学校では、語学の成績が群を抜いて優れていたものの、数学と体育に関して成績が低かったベッシーは、予定より18ヶ月遅れてNatal Teacher's Senior Certificateを取得する。やがて、セント・モニカを去るときが来て、ベッシーはClairwood Coloured Schoolに教員として採用され、職場の近くに住むことになった。

2. 激化するアパルトヘイトに巻き込まれて

ベッシーが学校を卒業し、セント・モニカを出た1956年前後は、まさにアパルトヘイトが厳しくなり、南アフリカの歴史にとってこれまで以上に苦しい時代の幕開けとなる時代でもあった。すでに南アフリカには人種差別に基づく法制度が存在していたが、1948年に国民党政権が誕生すると同時に次々と新たな法律が制定され、アパルトヘイト体制が急速に確立されていくことになった。それまで選挙権を持っていた「カラード」の人々であったが、1951年に「投票者分離代表法(Separate Representation of Voters Act)案が提出されると、カラードはカラードの代表者に対してのみ投票を許される形となった。これはすなわち白人政権に対してカラードの投票は何の影響力も持たなくなるということでもあり、その後の激しい抵抗運動につながる要因となった。やがて1970年には議員は白人に限定され、実質的にカラードや黒人等は選挙権を持たないという形になっていく。

そのような激動の時代、これまで厳しい教育環境のセント・モニカにいたベッシーは、セント・モニカを出て初めて自らが守られて育ってきたということを自覚するようになる。ベッシーの周囲でも、反アパルトヘイト体制の運動に参加する者も少なくなかった。このような中で、初めて外の世界へ出たベッシーはようやく南アフリカの激化する当時の社会に対しての政治的意識と鋭い感度を磨いていくことになる。

3. キリスト教とヒンドゥー哲学の影響

ローマカソリックのヒースコート家で育ち、英国国教会系のセント・モニカで過ごしたベッシーは、自らの出生の真実について冷たい対応をとった宣教師に対する不信感もあり、その後「二度とキリスト教会に足を踏み入れることはなかった」と幾度も書いている。そのようなベッシーが10代から20代にかけて傾倒していったのが実はヒンドゥー教の哲学であった。

G. S. Eilersen著のベッシー・ヘッドの伝記によると、「ベッシーは、七年間のうんざりするほど厳しく狭義なキリスト教義とはまるで正反対に逆説であるヒンドゥー教の包括的な哲学に関心を持っていた」という。インド系の人口が多い東海岸のダーバンではヒンドゥー教の影響が色濃く寺院も多い。しかし、ベッシーを惹きつけたのはヒンドゥー教そのものというよりも、むしろその哲学であった。1893年から1915年まで南アフリカに弁護士として滞在した「インド独立の父」マハトマ・ガンジーに対し彼女は深く敬服していた。ガンジーは、差別的法律に対して非暴力主義に基づいて戦うよう訴え、インド人のナタール・インド人会議を設立し、インド人の権利のために奔走し投獄もされている。(当然ガンジーは、南アフリカにおけるイスラム系インド人の権利保護に対しても熱を注いでおり、イスラムとヒンドゥーの分断が色濃いインドにおいて、このことがのちにガンジーのイスラム教徒への肩入れだと批判され、やがて暗殺へとつながっていくことになる)

ここで注目したいのは、ベッシーの関心がヒンドゥー教への信仰には向かず、その「哲学」に向いていたということだ。さらに、ガンジーがヒンドゥー教徒のみならず、イスラム教徒やキリスト教徒からも尊敬されているという点にベッシーは非常に強い関心を示している。これは排他的な性質さえあったキリスト教とは対照的に、包括的であるヒンドゥー教の哲学にも関係してくる。このことが、まだ若かったベッシー・ヘッドの政治観の形成に大きな影響を与えていることは特筆すべきであろう。

ガンジーやラーマクリシュナなどのヒンドゥー指導者の哲学に傾倒していった彼女であったが、このヒンズー教哲学への関心が後の作家としてのベッシー・ヘッドにどのような影響を与えたのかについては、作品に関する考察を取り扱う項目で述べたい。

セント・モニカという厳しくもある意味守られた場所から、アパルトヘイトに人権が奪われますます不穏な空気と厳しさが増していく南アフリカ社会の荒波に放り出され、この時期にベッシーの中で形成されていった政治的な思想や世界の捉え方は、その後の彼女の人生において非常に重要な土台となった。分断や本格的で政治的な「ヘイト」が進んでいく荒れた社会の中で、彼女がヒンドゥーを通して見たものは、今でいう「インクルーシブネス」に通じるものがあったともいえる。まだ若く社会に出たばかりの彼女は粗削りで尖っていて、時代の中で現実と理想とのギャップに苦しんでいたが、このときの彼女が作り上げたまだ粗い思想的土台は、やがてその先に人種主義やグローバル社会について実にリベラルでオープンな考え方を持つベッシー・ヘッドという人物の思想形成に発展している。そしてこの考え方は、当時から60年余りが経った現代社会に対しても重要な気づきを与えているといえよう。アパルトヘイトと分断の世界の中で、インクルーシブネスや人間の尊厳について深く思い入れ、その結果荒れたアパルトヘイト社会の中に溶け込むことの苦しさを知り、それがのちの作品となって世に出されている。

これは、ベッシー亡き後でも未だ根深い分断や排他性、ヘイトの蔓延る現代社会に向けての重要なメッセージでもあることを、ここに明確に記しておきたい。

4. 教師の職を辞する

ヒンドゥー哲学に傾倒し、汎神論や人間の尊厳に深く関心を持っていたベッシーであったが、その知的成長の反面、子どもたちを教える教師という仕事という現実とのギャップに苦しむようになった。貧困の中で子どもたちが唯一解放される時間が学校にいる時間だったが、ベッシーの思いとは裏腹に子どもたちをしつけることがうまくいかず、少しずつ彼女にとって学校が苦痛の場になっていってしまう。精神的にも病んでいってしまったベッシーは、セント・モニカを出て二年後、教師の仕事を辞職してしまうことになる。

その後、セント・モニカでマーガレット・カドモアに教師の職を辞めてケープタウンに行くつもりであることを報告すると、カドモアはこの決断を無謀だと感じたという。お金も仕事もなく、知り合いもいないケープタウンへ行くという若いベッシーの向こう見ずな考えについて、きちんと話し合おうとしたカドモアであったが、このときベッシーはまた感情的に泣き出し部屋を出て行ってしまったという。

ピーターマリッツブルグのネリー・ヒースコートのもとに一度帰ったベッシーをネリーは引き留めようとしたが、彼女の決意は固く、ケープタウンまでの汽車賃と少しのお金だけを持ち、1958年7月、21歳でケープタウンへ向かった。ベッシー・ヘッドの人生において、最初の大きな人生の転機となる旅であった。

その後、ベッシーはケープタウンにおいて新聞社のリポーターとなり、ジャーナリストとしての道を踏み出すこととなる。

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