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#025 『何故、屈辱の生ける屍として生きるより撃ち殺されることを望まない?』|ベッシー・ヘッドの言葉|Novel

Things wouldn't have been so bad if black men as a whole had not accepted their oppression, and added to it with their own taboos and traditions. Once he had pulled away from these taboos, he found the definition of a black man unacceptable to him. There were things like Baas and Master he would never call a white man, not even if they shot him dead. But all black men did it. They did it. But why? Why not be shot dead? Why not be shot dead rather than live the living death of humiliation? And this agony piled up on all sides in a torrential fury because it was not just that one thing that was wrong, it was a thousand others as well.

When Rain Clouds Gather, 1968

もし黒人たちが全体として自分たちの抑圧を受け入れず、自分たちのタブーや伝統を加えていたら、事態はそこまで悪くなかっただろう。タブーの数々から一度離れてみると、黒人の定義は受け入れがたいものだと気づいた。たとえ撃ち殺されたとしても、白人を「バース(旦那様)」「ご主人様」とは絶対に呼べなかった。だが、黒人たちは皆、白人をそう呼んだ。そう呼んだのだ。しかし何故?どうして撃ち殺されようとしない?何故、屈辱の生ける屍として生きるより撃ち殺されることを望まないのだろう。そしてこの苦しみはあらゆる面から積み重なった。間違いはひとつだけではない。何千だってあったからだ。

南アフリカからボツワナへ亡命し農村にたどり着いた元ジャーナリスト青年の深い心の内が独白のようにつづられている数ページは、作家ベッシー・ヘッドとして物語そのものよりも何よりも書きたかったことなのではないかと思っている。

彼女自身、南アフリカから亡命してきた元ジャーナリストそのものだからだ。そして、主人公の青年のように血が流され命が失われ、生活も尊厳も何もかも失わざるを得ないままに生きる人々を見てきた。
この物語が書かれた1960年代は、アパルトヘイトが非常に厳しく、反アパルトヘイト運動が吹き荒れた時代だ。ベッシー自身も政治活動に参加した後に亡命を余儀なくされた。
そのような中、ボツワナの農村を舞台にこのような人物の心の内を描くことで、アパルトヘイト社会や人種主義、アフリカの「部族主義」がもたらしてきたことを実に鋭く描き出す。これが文学作品の圧倒的な力なのだと思う。

この記事にも書いたが、ベッシー・ヘッド作品で特徴的なのは、登場人物の内面に深く切り込むところだ。主人公でも、周囲の登場人物でも、ひとりひとりの独白のような下りが必ずあり、ときにそれは数ページも続く。
単なる物語のプロットではなく、それぞれの人物像を人間として深く描きだすのだ。だからこそ、どんな時代でもどの国でも、読者は個人的体験として人物たちの心の内に入り込み、それが忘れられない記憶になったりするのだ。
しかも、単なる人間模様を描いているわけでなく、その社会を深く織り込み、人種主義や女性の抑圧された生き方、部族主義、政治に対して、強いメッセージ性が含まれる。これこそが、ベッシー・ヘッドがたぐいまれなるセンスと鋭い視線を持っている証なのだと思う。

わたしは国際協力の世界でアフリカに関わっているが、どんなに報告書や論文などを読もうとも、心に深く刻まれその社会の本質を立体的に見せてくれるのはいつだって文学作品だ。必ず、ふとした時に強烈に思い出すのだ。個人としての登場人物の心情や内面を。

ベッシー・ヘッド作品は、そうしてわたしのアフリカに関わる人生の中に深く織り込まれている。

なお、このくだりには同じく強烈な続きがあるのでそちらも次に紹介したい。

作家ベッシー・ヘッドについてはこちらのマガジンをご参照

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