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全てが終わったその先に

自分の命が尽きたら、二度と感じる事のない明日には、二度と言葉を交わせない大切な人達には、未来には、何があるのだろう。


人魚の眠る家/東野圭吾
読了。

有名過ぎてミーハーだとか言われるけれど、東野圭吾が好きだ。昔から好きでざっとWikipedia見た限りでは30冊以上読んでいた(ミーハーとは呼ばせない)。彼の作品は主体となる人物の思考を明確に描かない。主体となる人物と周囲の人物が触れ関わり、想像して紐解いていく。ミステリーだと謳われているいるけれど決してそう思えない。彼の作品は彼自身の話だし正解が明確に言えない問題をよく取り上げている。その文体が人間らしくて好きだ。あと主体となる人物の感情や思考を直接的に書かないから客観的な目線で読める。
なんだかんだ2年ぶりに触れる彼の言葉は、とても懐かしかった。

人魚の眠る家、というタイトルを見た時にウォーレスの人魚/岩井俊二を思い出した。ウォーレスの人魚は人魚と人間の違いを元に「種の起源」や我々が日常的に使う「言葉」について問題提起しているややファンタジー色強めな作品だ。
あらすじを読まないで購入する事が多いので、人魚の眠る家を見た時に人魚を主題にして社会問題でも提起するのかなと思いながら手にとった記憶がある。

ここからあらすじ含めネタバレあり。



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物語はほぼ離婚が決定していた夫婦の娘が、水難事故により”脳死”と思われる状態になってしまう事から始まる。
”脳死”と思われる状態、という表現を使ったのは意識が回復せず脳波の反応もない状態だが、脳死判定と呼ばれる検査を行い脳の機能が完全に停止している状態だと正確に結果が出ない限り”脳死”とは呼べないからだ。(臨床的脳死と呼ぶらしい)
彼らは脳死判定と臓器移植を提案されるが拒否をする。そうして、目を覚まさない娘に最新技術を施しながら脳死とは?生きている状態と死んでいる状態とは?もう生きていない、亡くなっていると周囲から言われながらも娘を守り続ける家族と、臓器移植を希望する人々が居る社会について、問題提起を繰り返し葛藤しながら話は進んでいく。

恥ずかしながら私は脳死と植物状態を混同していた。植物状態の場合だと生命維持に必要な脳幹部分は生きている状態のようで、意識が回復する可能性がある。しかし脳死の場合はその可能性はほぼないらしい。自発呼吸も出来ない事が多いようで、臓器移植に同意した場合は脳死判定が行われたのち臓器提供となる。

しかし多くは早いうちに亡くなってしまう事が多いが、自発呼吸がなくとも呼吸器で長期間生命を維持できる場合もあるらしい。

大切な人が恐らく脳死状態だ、と言われたらどんな選択をするだろうか。

法律的には脳死と判定された時刻が死亡日時となる。つまり生きている事の定義は脳の機能があるかどうか、という事になる。けれど実際にはどうなのか。心臓は動いていて成長もする。髪の毛は伸びるし肌は温かい。その状態を死んでいると受け入れられない気がする。
自分の祖父が亡くなった時の事を振り返ると、穏やかな表情で眠っているようだった。ただその肌に触れた時の陶器のような冷たさと、柔らかさのない頬に「生きている人間の身体ではない」と思った記憶がある。けれどもしその時、以前と変わらない温もりと柔らかさがあったら「生きている」と感じたかもしれない。

では、自分がその状態になったとしたら?

私は臓器提供の意思表示をしている。
高校生になった時に初めて親から保険証を手渡された。その時裏面を見て記入をし、その後日本臓器移植ネットワークに登録をした。常々言っているが、「自分の人生のエピローグを決めるのは自分ではない他者だから、幸福な人生だったと思われたい」として日記をつけている。昔からその思想が強く、意識があるうちに自分の生死を選択出来る事が有難いと感じた事を覚えている。意思表示の内容については差し控えさせて頂くが、自分がその状態になった場合にどのようにして欲しいかは15歳の頃から変わっていない。


あなたが生きていれば、あなた以外の誰かが、あなたに会いたいと思う。他人に、そう思わせるキーワードが、生きているということかしら
迷宮百年の睡魔/森博嗣


生きている、という事。

迷宮百年の睡魔の、上記の言葉が好きだ。誰かの記憶の中で生き続けている。思い出に風化しても、また会いたいと思う。そのたびにもう居ないはずの姿を思い出す。記憶の中では肉体を持ち呼吸をして笑っていて、共に行った場所でその姿を探し記憶が更新されていく。
人魚の眠る家にも通じるものがあった。目を覚まさない夫婦の娘を担当する進藤という医者が居るのだが、ラストシーンで彼が言った言葉で号泣してしまった。最後まで言葉を味わうように、けれどスラスラと読める作品でとても良かった。


私が死んだらその先の未来は見えなくなる。大切な人を抱きしめる事も共に笑い合う事も出来ない。残された者の方がつらいけれど、だからこそ私は大切な人達より後に死にたい。そしてまた彼らに会いたいと願うのだ。生きていると感じながら。

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