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村上春樹「猫を棄てる」を読んで考える「父と子」の関係

こんにちはRYUです。先月、村上春樹氏の新刊「猫を棄てる」が発刊されましたね。これまでタブー?だった村上氏の父子関係が書かれたノンフィクションで、ファンにとって長編小説とは違う部分で関心を惹かれる作品だと思います。言ってみればNHK「ファミリー・ヒストリー」の村上版?私もさっそく読了したので、感想文をまとめてみたいと思います。ちなみにタイトル画像は53年前の祖父・父・私です。

まず、これを読んでくださっている皆さんに問いかけてみたいのですが・・・

父親のことをどれだけ知っていますか?

「父と仲良しで、父のことは良く知っている」という方も勿論いらっしゃるでしょうが、「良く知らない」「関心も無い」という方のほうが多いんじゃないでしょうか。あるいは何らかの事情で父親不在だったり、父の記憶が無い方もいらっしゃるでしょう。

特に「父と息子」という関係においては、同性であるがゆえに価値観の相違が早い時期に明らかになり、多くは息子の側から、あるいは双方向から「拒絶する」状況になりやすいと思います。私の場合もそうでした。

村上氏も30年にわたる父子の断絶があったようで、断絶が終わったのは父親の死の直前だったそうです。それまで関心がなかった父親について、まるで長編小説を書く時のように過去の足取りを取材し、いつもの村上氏のメタファーで表現したのが本作です。

では、まだ読んでいない方のために「猫を棄てた」逸話や全体のあらすじはカットして、個人的に印象に残った点だけをまとめてみようと思います。

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      ※53年前の父と、不安な表情の私。

1.一貫した村上氏の反戦・平和主義

全ての村上作品に通じる思想として、「反戦・平和」があります。作品中では残虐なキャラクターが登場することもありますが、それが表現するのは人間が本来持っている残虐さで、バイオレンスを主題にしているわけではありません。かつて村上氏は、自身の反戦・平和主義について「我々の世代の責任」であると語ったこともあります。

本作でも、村上氏はまず父親が軍隊に召集されてからの足取りを克明に調べています。小説家として反戦・平和というテーマに向き合う上で(と言っても表面的ではなく、作品の深淵に流れるものですが)、肉親である父親が戦争という場でどれだけの死に関わったのか?身近であるはずなのに知らなかった事実を、まず確認したかったのだろうと思います。

2.親から子には「継承」されるものがある

本作で村上氏は「親から子には継承されるものがある」と書いています。例えば、国語の教師だった父の文章構成力を遺伝的に継承した面は否定できないでしょうし、国文学が専門だった父と断絶したことが、外国文学に傾注する機会になった可能性もあります。また、父が戦時中にどれだけの敵兵を殺したか?自軍の仲間がどれだけ亡くなったのか?という闇の部分についても、村上氏は「子孫の責任として継承しなければならない」と書いています。

私も含めて、誰もがこのような「親から子への継承」は否定できません。祖父母や父母がなければ、自分は存在しなかったのですから。村上氏も「自分を形成する物の中にある未知のもの」を確かめるために、父親からの継承を肯定して和解したんじゃないでしょうか。

3.互いに理解していなくても、些末な記憶は残り、親子を繋ぐ

タイトルになった「猫を棄てる」逸話は、村上氏がまだ小学生の頃の、実に些細な親子の記憶です。しかし些細なことであっても、村上氏にとっては、「嫌いだった父親」との微かな記憶の共有であり、断絶した間も父と子を繋いでいたのだろうと思います。

私も父との間には生々しい嫌な記憶が多いのですが、ごく僅かながら同じように些細な時間を共有した記憶があります。私の場合も、父子の断絶をかろうじて繋いでいたのは、こうした記憶だったのかもしれません。

皆さんは、親から何を継承されましたか?そして、子供に何を継承しますか?

この作品を読んだら、多くの方が「親から自分に、どんな継承があったのか?」考えてしまうと思います。

そしてもう一つ。自分が親の立場で、自分が子供たちに何を継承しているのか?についても考える機会になるんじゃないでしょうか。私も28歳の娘と23歳の息子がいますが、この点はとりわけ自信がないです(汗)。 (RYU)


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