伝える人、であるために
サッカーコーチの役目が「サッカーを教えること」だと思ってしまっている人がまだまだ多い気がして、それだとどうしても、コーチ → 選手 への一方通行な指導になりがちだし、教え過ぎにもつながるし、いろいろとズレも出てきてしまう気がします。
最近特に思うんですが、コーチは「サッカーを教える人」ではなく、サッカーの楽しさや奥深さを「伝える人」だと思ったほうがいい。
「何を伝えるのか」を掘り下げて考える 思索 をまずコーチがしなければいけないし、そもそも「サッカーとは何か」という原理の部分を、コーチ自身がまず考えることが大切。
極端な話、教えるだけなら、世に溢れてる教則本をそのままコピーして読み上げればいい。
でも 伝える となると、そうはいかない。
人から借りてきた言葉では、何も伝わらない。
同じことを同じ言葉で伝えるにしても、誰がそれを伝えるかによって、それはまるで違うものとなるんだから。
昨日、同じように「教えるではなく伝えること」という内容をTwitterにも投稿したら、なでしこリーグの某クラブで活躍するある選手が、リプライをくれました。
以下、そのやりとりです。
「選手にせよ、指導者にせよ、人と人との関わり合いの話しなので、そうなるとそっちの方がしっくりきますよね」(某選手)
「ホントにそう。人同士の付き合いなので、指導者と選手、どちらが上でどちらが下というものでもないですしね」(僕)
「うちのコーチもそういう人で、めちゃくちゃ熱いし、すごく好きなんです」(某選手)
コーチのことを「すごく好きなんです」って言える彼女、すごくイカしてる。彼女にそう言わせるそのコーチも、きっと素敵な方なんだろう。
そういえば、僕が尊敬するある方も、以前こう言ってくれた。「子どもに、僕はあのコーチのことが好きなんや、って言ってもらえるようなコーチにならなあかん」と。
そういうことですよね。教えたるぞ!っていう上位下達の関係だと、なかなかそうはいかない気もします。
どう伝えるかには、そのコーチの人間性が表れる。そのコーチに 哲学・美学・信念 があるかどうかも、簡単に見透かされる。
そのコーチの人柄までもがミックスされて上乗せされ、その人がそれまで紡いできた言葉や振る舞い、経験、背景、その他、、それら全てから絞り出され滲み出るような言葉でないと、本当に伝わることはきっとないのだと思います。
と言いつつ、あえてここで人の言葉をまたあっさり借りちゃうけれど
尊敬するあの方の言葉でもう一つ強烈に響いたのが「選手がミスをした時にどう声をかけるか。そこに、そのコーチの生き様が表れる」と。
本当に、まさにですよね。
この言葉は本当に本当に身に沁みて、今でも僕の心の中にしっかりと棲み続けてます。
「どう伝えるか」には様々な種類があると思うけれど、選手がミスをした時に発する言葉(振る舞いも含め)は、その最たるものなんじゃないかな。
教える ではなく、伝える。
教師でもなく、指導者でもなく、伝える人。
伝えるものを自身の中で整理し、選び、紡ぎ、絞り出すこと。
でもその伝わり方や受け取り方は選手それぞれで違っていいのだと最初からこちらが理解していれば、決してイラつくこともない。
この歳になって、そして自身でいろんなことを味わい経験もして、ようやくこう考えられるようになりました(圧倒的に遅い)
Twitterにリプをくれたあの彼女は今週末、なでしこリーグ2部の最終戦。優勝がかかった大一番らしい。頑張ってね!
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