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「死生観」とは?

昨日ははっぴーの家ろっけんのオンライントークに参加した。

今度は「死生観」をテーマにした教育事業を展開していくそうだ。

何故こんなに毎回面白いことを思いつくのか…笑

今回のオープニングトークもとても面白かった。

最初の「『死生観』ってなんだろう?」という問いでは、死生観を考えることは生きることを考えること、現在のあり方を考えることにつながる、という意見が多かった。私たちが日々営んでいる生活そのものが生と結びついており、そしてその日常が死に繋がっている。どう死にたいか、ではなく、どう生きたいかと問うていくことが大切なのだと思う。

二つ目の「日本の葬儀はどうして暗いのか?」という問いでは、葬儀が形式化していること、日常の中で死が切り離されていることを考えさせられた。葬儀は国によって、全く異なる形で執り行われているようだ。日本では「死」というと、暗いイメージが強いのではないだろうか。それは私たちの中で、暗い病室の中で、悲しみにくれた親族に囲まれて死を告げる音が悲しく鳴り響いているシーンや、葬式で喪服に身を包んだ人々がすすり泣いているシーンを想像する人が多いからではないだろうか。私たちはそのように「死」を演出しているのだ。「死」=人生の終わり、人々を哀しませるものだ、と考えている。もし、私が亡くなった人だとしたら、最期にそんな家族が悲しむシーンは見たくないなぁと思う。でも、今の日本社会全体、人々のあり方や生き方がこういう哀しい死を生み出しているのかもしれない。

三つ目の「コロナで得たものと失ったものは何か」という問いでは、改めて自分自身のここ半年を振り返る良いきっかけとなった。コロナになってからこれまでの生活は大きく変わった。私はどちらかというと、オンラインになってから生活が楽しくなった。これまでは距離や金銭的な問題で参加できなかった地方の講座やイベントに参加できるようになったし、学術的な場では子連れで行けないところがほとんどだったが、オンラインだったら画面をオフにしたりミュートにすることができるようになったため、いくら子供が泣いてもその場を立ち去らなくても良いし、オムツ替え、授乳で離籍しなくても良くなった。参加へのハードルがとても低くなり、負担感がなくなった。移動時間がないため、1日の間にいくつか気になるイベントが重なった時も全て参加できるようになった。コロナ時代だからこそ、これだけ急速にオンラインが普及したのだと思う。

コロナで失なわれたものとしては、祭りが挙げられていたが、確かに祭りや運動会などはリアルで行われないと、やはり物足りなさを感じる。人々の熱気、情熱がオンラインだと伝わりにくいのだ。同じ空間(場)、時間を共有している人々が一致団結し、身体の奥からじんじんと炎が燃え上がってくるような感覚はここ数ヶ月は味わっていない。

そう考えると、やはりオンラインとオフラインはどちらにも良さがあり、私たちはもうどちらが一方だけでは満足できなくなっている。今後は、オンラインとオフラインが共存しながらまた新しい社会を築いていくのだと思う。いや、もう築き始めているのかな?

私はそんな中で何ができるか、自分はどうありたいか、をこのオープニングトークで様々な意見を聞きながらずっと考えていた。もちろん答えは出なかった🤣笑

きっとこうやって死生観の探求コースでは、頭を混乱させられるんだろうなぁ。笑

参加したかったなぁ😂早割りチケットを買うか悩んだ時に買っておけばよかったなぁ😂

まぁまたどこかできっと配信してくれると信じて😇





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