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祝福の星は橙色

第一子と第二子が生まれたのは、共に10月であった。

私が出産をした『聖母病院』には美しい中庭があり、退院のその日私は小さな命を抱いて庭をゆっくりと歩いていた。

長男を産んでから既に14年も経つが、初めて産院から『外の世界』へ、新しい命と共に踏み出すことが非常に心細く不安だったのを覚えている。産院にいる間は、何かあってもすぐそばに助産師や医師がいるという絶大な安心感があったのに、そこから急にこの小さな命と私とで自宅に帰るというのは、大きな勇気の要る一歩であった。
この命の全てが私にかかっている。私がしっかりしなければ、消えてしまうかもしれない。そんな風に、これまでに感じたことのないような大きな不安と、責任感、重圧とせめぎあっていたのは私の中の『母性』だったと思う。定まらない気持ちを抱えながら私はなかなか病院を離れることができず、未練がましく聖母病院の庭を歩いていたのだった。

やがて、その不安や重圧の大きさをはるかに凌ぐ巨大な母性が、濃い霧が晴れていくように姿を現し「何があっても守りぬく」という揺るがない覚悟となって私の中に静かに満ちていった。覚悟は生まれたり、自分が選択したものではない。
最初からそこにあったのだ。

私が、自分の人生に静かに覚悟を満たした庭には、キンモクセイが咲き誇っていた。

私は顔を上げた。

入院した日よりもいつのまにか、空気はずっと澄んで、空は宇宙の方へ膨張し、光はそこらじゅうに乱反射したような日だった。湿っぽい土の匂いに混ざって、キンモクセイの香りが私と新しい命を包んでいた。
大丈夫、世界は優しい光を湛えている。
そんな囁きのようにあの日、キンモクセイは私と新しい命の上に、その橙色の星を落としていた。祝福のように。

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