シャンゼリゼ劇場、白鳥以上に私をくぎ付けにしたもの
それは、ある人の後ろ姿
2020年の年明け、パリのシャンゼリゼ劇場での出来事です。開演してほどなく、舞台に熱中している熱心な背中が視界に飛び込んできました。バルコンではなく、グランサークルで席を確保していたこの日、前から5列目左サイドが私の席。その一列前、その人は自席を離れて、中央寄りへ(多分、自然と足が動いて)、そしてかぶりつくように、舞台に魅入っていました。
その人、4歳か5歳くらいでしょうか。一歳くらいしか年の違わないと思えるお姉さんと一緒に(おそらく)母親に連れられて観に来た白鳥の湖。席は前から4列目の左端。どうしても見切れてしまう。最初は立つ、それから少し右にずれる、そうやっていつの間にか自席を離れて全体が見える中央寄りへ・・・妹の動きに姉もつられる。そんな感じです。子どもたちなので、実は立ったまま歩き回っても座っている大人の視界を邪魔することはほぼない。けれど、観劇マナーはあるから、彼女たちのママンは周囲の大人たちを憚りながら、ちょっとした演技の切れ間を見つけては必死に手の届かない場所に行った娘たちを呼び戻す、ことの繰り返し。
熱狂している人を誰も止めることはできない
性格出てるなと思ったのは、お姉ちゃんの方は、ママンに何度も言われると気持ちを抑えて自席に戻ってくるのに、妹は頑として動かなかったこと。這いずるようにして着たママンの手を振り払いさえする。
多分、強引に、力づくで引っ張って自席に戻すことは、そんなに難しいことではなかったはずです。でも、躊躇するママンの気持ち、すごくわかる気がしました。その子の意思が、伝わってきたんです。その時の少女の確固たる意思、断固たる態度、「私はどうしようもなく、たまらなく、この全部をちゃんと観たいの!」という感じ。←勝手な意訳w。
私がその子の親の立場だったとしても、そこまでの意思表明を力技でねじ伏せること、ちょっとできないかもな、と思いました。
思いの力は、腕力やそのほかのいろいろな力に勝る(時がある)。
大人しくお行儀よくマナーを守ってね、という保護者の意図に応じたお姉ちゃんと、力関係を無視して意思表明をした妹。
正解とか道徳とか、そういうカタの付け方ではなく、人が発動した時(自ら本気で動いた時)のことを考えました。
ゆるやかでも、妥協的でも、そのこと(熱狂、発動、意思)を承認してもらえたら、人生はずっと楽しいものになっていくのではないかしら?体裁やルールで押さえつけられる前に、まず「いいね!」を、付けてもらえたならば。
だって、シャンゼリゼ劇場の前方左サイドの周辺は、私だけでなくみんなが少女の静かに熱狂する 背中にいいね、していた(と私は感じた)のですもの!
人が本気本心で、動いたらまず、そうだね、いいよねの雰囲気をつくること。
それこそ、他者の顔色を伺い、空気を読み、同調圧力に摩耗していく、という負のスパイラルを回避することに繋がるのではないか、と。
(ほぼ確信していますw。)
私自身が、意図にそうようなプログラムで生きてきた(特に経済的に自立するまでは)ので、余計に、彼女が羨ましかったのかもしれない。同時に、意図にそうように自席に戻ったお姉ちゃんを、お母様が優しく温かくずっと抱きしめながらいたことも、忘れられません。
意思を通させなかったことへの謝罪のように、それでも彼女の意思の炎が消えて失せてしまわないように、お姉ちゃんを包んでいたように感じられました。
国鉄労組のストライキ真っ最中のパリに年明け行ったときの出来事です。クリスマスをクライマックスに新年を迎えたパリのコンサートや舞台は小休止の時期。唯一といっていいのはシャンゼリゼ劇場。昨年の同時期にはくるみ割り人形、今年は白鳥の湖を上演中でした。ソワレだけでなく15時の開演の回を週末に設定しているのはお子様の観劇への対応。なので、小さなお子様もちらほら見かけた回でした。
夢中になるひと、夢中になる私、他者にも自信にも、それいいね!といい続けたいと思った新春でした。これから、シャンゼリゼ劇場にいくたびに、私はそのこと、自分に問いただすと思います。
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