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テレビって本当にオワコン?

「テレビはオワコン」「テレビは10年後に消滅する」などなど、もう20年くらい前から聞かされている気がする。で、きのうもこんな記事を読んだ。

確かに、「楽しくなければテレビじゃない」などとキャッチコピーが踊った頃のテレビはめちゃくちゃ面白かった。というか、夜、家にいてやることといえばテレビを見るか、手元のおもちゃで遊ぶか、漫画を読むか(たまは勉強するか)、くらいしか選択肢はなかった。

そのうち、ファミコンが出現し、携帯ゲーム機が登場し、PCが現れ、インターネットが幅を利かせるようになり、夜の時間にやることの選択肢がどんどん増えた。勢い、それまでのテレビばかり見ていた時間の次々に切り売りするかたちで、後発のものに配分されてきた。要するに競合相手が知らず知らずのうちに増殖し、テレビの存在感が相対的に下がった。この流れはどうにも止めようがない。

しかし、ではテレビは王座を降りたのかといえば、ちょっと違うんじゃないかと自分は思う。

だって、Twitterのトレンドワードを見てみるといい。時間帯にもよるが、夜のゴールデンタイム(19時〜23時)に並んでいる言葉の半分以上は、その時間にテレビでやってる番組から飛び出したものではないか。今なら、日曜21時台から23時台までは上位の殆どに「倍返しだ」「おしまいDEATH」「おねしゃす」などなど、ドラマ「半沢直樹」にまつわるもので埋め尽くされる。余裕で王様じゃないか。

なるほど、「半沢直樹」のような第一級のテレビコンテンツは例外中の例外という意見はあろう。しかし、テレビドラマなど今や、放送時間のリアルタイムでなくとも、自分の都合で何時に見ても大丈夫な技術が普通にあるのが今の世の中のはず。なのに、ほとんどの視聴者はそれをしない。決められた放送時間にテレビ画面の前に鎮座し、役者たちのセリフの一つ一つに聞き入り、何ならスマホで画像を撮って、我先にとTwitterにアップすることで満足を得ようとする。そして他の人の書き込みを眺めながらコンテンツを共有する。

これらは間違いなく、リアルタイムで楽しむことを前提としているテレビだからこそなせる技だ。これのどこがオワコンというのか。むしろ、昭和のテレビのタニシ味方から相当アップグレードしているではないか。ビデオにとって後で見ることによる時間的開放感よりも、より同期的に社会的時間を楽しむための技術の方に、多くの人が満足感を求めている。

自分たちが子供だった1970年代も、テレビは友達同士での共通言語だった。月曜日の朝は一昨日のドリフの話題で盛り上がったり、仮面ライダーごっこに興じたり、テレビから発信された情報を糧に友情を育んだものだ。月曜日の職場で、好きあらば半沢や大和田のセリフを試してやろうと目論むサラリーマンと心境は全く同じだ。海外ではどうだかわからないが、ことこの国で続いている営みは、50年経ってもそんなに変わっていないのが実情だ。それの何が悪いのか。どこがオワコンというのか。

とはいえ、テレビ中心の文化を今なお引きずっているのは、黄金の70年代、80年代を知っている我々の世代やそれと隣り合わせの今の30歳代後半あたりまでなのかもしれない。小学生の頃からタブレットやスマホを片手に育ち、手のひらの画面でYou TubeやTik Tokに慣れ親しんでいる世代からすれば、時間の主導権を他人に握られている放送コンテンツは、数ある媒体スタイルの一つに過ぎず、我々ほどの執着はないかもしれない。

それでも、人生100年時代と言われる中で、この先50年はテレビの地位はそんなに変わらないんじゃないかと自分は楽観している。そんなテレビを指差してオワコンと笑ってるその論調こそ、そろそろオワコンなのではないかな?

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