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権利とライセンスの共存

昨今、自分たちの「権利」を「ライセンス」かでもあるように濫用する者たちが横行しているように思う。「権利」があるのと「ライセンス」を所持しているのとでは、大きく意味が違ってくるのだ。「権利」というのは自他共に認める物であり、「ライセンス」というのは自分の意図的な意志や行動と共に得た物なのである。それ故、「ライセンス」には少なからずプライドが付随してくるのだ。 

ある日の電車内での出来事。私は、いつもの早くも遅くない歩幅で普通シートに座ろうとしていた。私がほとんど座り掛けようとしている時に、すかさず小さい子連れの夫婦が割り込んできた。そこまでなら終わったことで気持ちの整理がつくのだが、彼らは勝ち誇ったような表情で私の様子を伺う反復作業をして見せたのである。その反復作業は10秒程続き、私は呆気に取られ立ち尽くしてしまった。決して優先席に座ろうとしたり、席を譲らないアクションを出していた訳ではない。それであるのに、彼らのその反復作業は私に架空の罪悪感を植え付けたのである。とても、やるせない気持ちでいっぱいになった。

その時の彼らは、正に「濫用を御覧よ」とでも言いたげな表情であった。本来の小さな子連れという「権利」をいとも簡単に「ライセンス」に切り替えて見せたのである。これが、暗黙の了解の押し付けなのだろうかと感じてしまった。それと同時に小さい子連れの夫婦に対して、そのような感情を持つことすら悪であるのかと自責の念にも駆られてしまった。しかし、私は全く悪いことはしていない。至って冷静でいいのだ。

そして、「女の吉野家」とも言われているSoup Stock Tokyoが離乳食の無償提供を始めたことを思い出した。私は電車内での経験から、ヤフコメネキたちは「権利」を「ライセンス」化されることを怖れているのではないかと思った。子育てを頑張っている女性たちを応援しようという名目で無償提供することは、とても素晴らしい。しかし、良心に漬け込むように我が物顔でお店を利用する対象者が現れることも懸念するべきなのだ。ヤフコメネキたちの言う通り、子育て対象者じゃない人たちへの価格転嫁がされることも考えられる。それは、対象者の「権利」が「ライセンス」化されることで、非対象者に飛び火被害が生じるということだ。

このように、与えられた「権利」が独自の「ライセンス」に化けてしまうと第三者にも影響を及ぼし兼ねない。そして、何事も対象者と非対象者の「権利」と「ライセンス」を共存させることは、容易いことではないのである。より暮らしやすい世の中にするためには、お互いの「権利」のボーダーラインを把握することが非常に大切なのだ。どちらか一方が「権利」を濫用したり、傲慢であってはいけない。対象者だから偉い、非対象者だから謙遜しなければいけないということでは全くないのである。そして、「権利」を与える立場の組織や人間は、非対象者にもよりよい状況になるために努めなければいけないのだ。正しく、譲り合いの精神というとだ。

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