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わたしが彼女を愛した理由 7 バンコク出張編

雨がようやく上がり、夕方の空気が澄んで心地よく感じられる。ビーチでのひとときは叶わなかったが、その代わりにLinが「和食はどう?あなたの国の料理を紹介してほしいわ」と微笑みながら提案してくれた。期待に満ちた眼差しに、しばらく日本の味を忘れていたことを思い出し頷く。

スマホでお店を検索していると、落ち着いた雰囲気の鉄板焼き屋が目に留まった。電話をかけてみると、早い時間であればまだ席が空いているとのこと。Linにそのことを伝えると、すぐに「いいわね」と嬉しそうに同意してくれたので、その場で予約を入れることにした。「タクシーで10分もあれば着くと思う」と言って、服に着替える。L準備が整うとフロントに向かい、スタッフにタクシーを呼んでもらう。外に出ると、雨上がりの空気が柔らかく肌を包み、道路も乾き始めていた。夕方の街並みと涼しげな風が、これからの時間をどこか特別なものにしてくれる予感がした。

タクシーに乗り込んでしばらくしたとき、Linが不意に私の手を握ってきた。あまりにも突然のことで心臓が一瞬高鳴り、どう反応していいのかわからなくなってしまう。Linは微笑んで、「かわいい指輪ね。どこで買ったの?」と、軽い調子で尋ねてくる。その言葉に、肩の力が抜ける。視線がただ指輪に向けられていたことにほっとしつつも、先ほどの動揺がまだ完全には収まらず、顔に出ていないか心配になる。

「これは、今年の誕生日に東京で買ったの」と伝えると、Linの表情が羨ましそうに柔らかく変わった。「いいなぁ、東京に行ってみたいわ」とつぶやきながら、優しく手を放す。いつか一緒に東京を歩けたらどんなに素敵だろう。握られた手の温もりが、胸の奥で小さな希望のように広がっていくのを感じた。

鉄板焼き屋に到着すると、思っていたよりもカジュアルで、インターネットで見た写真とは雰囲気が違っていた。カウンター席に並んで座り、メニューを広げてみると、お好み焼きなどが並んでいる。日本での鉄板焼きとは違うようだけれど、目の前で焼いてくれるパフォーマンスには似たような趣があった。「ちょっと日本の鉄板焼きとは違うわね」とLinに小声で伝えながら、横顔に視線を向ける。Linは興味深そうに、目の前で料理が焼かれていく様子をじっと見つめていた。すっぴんに近い顔は、自然体のままなのに活力に満ち溢れていて、そのオーラに圧倒され、じっと見続けることができなかった。

「東京に来たら、どこに行きたい?」と聞いてみると、Linは考えてから浅草、銀座、皇居などの観光地を挙げたあと、微笑みながらこう続けた。「でも、あなたの家にも行ってみたいわ。日本の女性がどんな生活をしているのか、すごく興味があるの。」Linの純粋な好奇心と、日本に触れたいという気持ちが伝わってきた。そして、私の生活を知りたいと思ってくれていることが嬉しくて、心が温かくなった。

「明日は早起きしてビーチに行きましょう。」Linがにこやかに提案してくれた。メインのビーチではなく、離れた静かな場所で、観光客も少なく落ち着いて過ごせるのだという。その細やかな計画に胸が温かくなる反面、自分のことが気になった。Linがいろいろと考えてくれているのに、私はただついていくだけで、何もしてあげられていない気がして、申し訳ない気持ちになった。この感謝の気持ちをどう伝えればいいのかと考えるうち、タクシーの中で褒められた指輪のことを思い出した。

そうだ、バンコクに戻ったらLinにも同じように指輪をプレゼントしよう——少し大げさな贈り物かもしれないけれど、私のことを忘れないでいてほしい、そんな気持ちが湧き上がってきた。

夕食を終えたあと、散策をしてみることにした。周囲には賑やかなバーが立ち並んでいたが、奥まった路地に静かで落ち着いた雰囲気の店を見つけ、Linと二人で入ることにした。向かい合わせに座ると、Linがビールをオーダーするのを見て、同じものを頼む。

ビールが運ばれ、Linが楽しそうにグラスを傾けると、その顔に幸福感がふわりと漂い、その表情が自分にも伝染するようで、心が温かく包まれていくのを感じた。「日本に行くならいつがいいかしら?おすすめの時期ってある?」とLinが興味深そうに尋ねてくる。「東京の夏はバンコクよりも暑いくらいだから、避けたほうがいいかもね」と笑いながら答えると、Linもその話に楽しそうに耳を傾けてくれた。

「そうね、じゃあ春か秋がいいかな」と私が続けると、「春と秋っていつ頃?」と不思議そうに首をかしげた。タイにも季節はあるだろうが、日本の四季のような区分はないのだ。「10月から12月、3月から5月くらいが過ごしやすいかもしれない」と伝えると、Linは考え込むように頷いて「ちょっと考えてみる」と微笑んだ。その言葉がどれほど本気なのか測りかねたが、それがただの冗談ではないと信じたい。しばらくして、Linが「またバンコクに来る機会ってありそう?」とはにかむように尋ねてきた。すぐに仕事で来る予定はないけれど、「絶対にまた来たい」と、心からの気持ちを伝えた。Linに合わせて言ったわけではなく、本当にそう思っていた。

「もう少し部屋で飲まない?ワインを買っていきましょう」、その言葉に、夜がまだまだ続くことを感じ、心が温かくなる。異国の地で偶然出会ったLinと二人きりで過ごすこのひとときが、とても貴重だと思う。近くのスーパーに立ち寄ると、Linが冷えた白ワインをカゴに入れ、スナック菓子をいくつか選んでいる。私は、フルーツの盛り合わせとチーズを手に取った。新鮮なフルーツの甘くさわやかな香りが鼻をくすぐり、これからの夜が楽しい時間になる予感が広がっていく。

店を出ると、夜風が肌にひんやりと触れ、心地よい冷気が夜を満たしている。街のざわめきに包まれながら歩いていると、Linが「ソンテウって乗ったことある?」と尋ねてきた。ソンテウは小さな乗り合いバスのようなもので、見かけたことはあっても乗るのは初めてだ。「乗ったことない、乗ってみたいな」と返すと、Linは嬉しそうに微笑んで、運転手に行き先を告げてくれた。ソンテウに乗り込むと、他に乗客はいなくて、私たちだけの空間が生まれた。夜の風が流れ込み、髪を優しく揺らす。異国の夜の空気と香りが体に染み込んでくる。街の活気を感じさせるざわめきと、食べ物や香辛料のほのかな香りが漂い、私の五感が満たされるようだった。

横に座るLinが夜の景色を楽しそうに見つめている。その姿を見つめると、心の奥から幸せな気持ちが広がっていく。この異国情緒に包まれた夜、揺れるソンテウの振動が心地よく、風に包まれるたびに、目の前の景色が一層鮮やかに映り、夢の中にいるようだった。Linと共に過ごすこの夜が、何にも代えがたい特別な時間になる予感がした。
ホテルに戻ると、夜の静けさの中で中庭が柔らかくライトアップされ、その光がプールの水面に反射して、まるで揺れる星のようにキラキラと輝いている。湿気を帯びた夜の空気と光が溶け合い、二人を包み込むような静寂が心地よい。

部屋に入って汗が気になり、私はシャワーを浴びることにした。熱すぎず、程よい温かさのお湯が肌に流れ、一日の疲れが洗い流されていく。リフレッシュしてバスルームを出ると、今度はLinがバスルームに向かい、私と同じように静かにシャワーを浴び始めた。

部屋の照明は、窓越しに差し込む中庭の光と交じり合い、まるで計算されたように、夜のムードがふわりと漂っている。

Linがバスルームから出ると、二人で部屋のソファに腰を落ち着ける。冷えたワインの栓を開け、グラスに注ぐと、淡い香りがふわりと広がった。お菓子やチーズ、フルーツの盛り合わせをつまみながら、昨日から今日までの出来事を振り返る。一つひとつの瞬間がどれも丁寧に過ごされたように感じていたけれど、こうして思い返すと、まるで時間が飛ぶように過ぎ去ったようにも思えた。「本当に、あっという間だったね」と、Linが微笑みながらつぶやく。グラスを傾け、ワインの冷たさが口に広がるたびに、今日という日がどれほど特別だったかをかみしめていた。

中庭の照明がふっと消え、部屋の中が静かに暗さを増していく。時計を見ると、10時を過ぎたところだった。薄暗くなった部屋には、中庭からのわずかな光が残るだけで、その柔らかな暗さが二人の時間をさらに深めてくれる。Linがベッドに身を沈め、心からくつろぐように「あぁ、気持ちいい」と小さな声でつぶやいた。私も体がベッドを求め始めるのと同時に、ほどよく回った酔いが心地よい眠気を連れてくる。Linの隣に横になり、シーツのひんやりとした感触が肌にしみ込むと、心がほどけていくような気持ちがして、目を閉じた。

横たわったまま気配を感じ、視線を向けると、Linが穏やかな目でこちらをじっと見つめているのに気づいた。その眼差しには何か温かいものが宿っていて、ただ見つめられているだけで胸の奥が静かに熱を帯びていく。二人だけの空間に、Linの視線が優しい波のように広がり、私の心に触れてくる。シーツの冷たさと暖かい視線の対比が心を揺らし、ただその瞬間に身を委ねていた。

心が少しずつ、言葉にはできない温かさで満たされていくのを感じ、再度視線をLinに向けた。胸の奥が小さく高鳴り、どこか不思議な緊張感が漂い始める。私たちの間に漂う距離は心地よいけれど、手を伸ばしてみたい衝動が心の奥に浮かぶ。

Linが私のほうに体を傾けた時、私の心拍が速くなるのを感じた。吐息がほんのかすかに触れるほど近く、私の中をまっすぐに見つめている。顔が一段と近づき、互いの呼吸が触れ合うと、すべてが今、この瞬間に集中していくようだった。

「大丈夫?」とLinが静かに囁く。その一言には、計り知れない優しさと安心感がこもっていて、その言葉だけで、心の奥が溶けていくのを感じた。Linの指が私の頬に触れると、その触れ方がまるで私を包み込むようで、体の奥深くまで温もりが浸透していく。指先が私の髪をかき上げるように撫で、さらに近づくと、肌からほのかに漂う香りが静かに鼻をくすぐった。お互いの間の距離が縮まり、言葉にならない気持ちが伝わってくるような不思議な感覚が胸を満たしていく。

そして、唇が触れた瞬間、胸の奥で静かに波が打つような感覚が広がり、心も体も激しく揺さぶられる。お互いの呼吸が混ざり合い、触れた瞬間の感触が心に深く刻まれていく。Linの指先が私の肩に触れ、体に寄り添ってくる。私の体もLinの方へと傾いていった。一つ一つの動きがゆっくりと流れ、肌に触れるたびに温もりがさらに深まる。指先に伝わる感触、互いの呼吸の音が、ただ特別なひとときに変わっていく。二人が重なり合うように、体が完全に一つになり、心と体が繋がる感覚が全身に広がる。

互いの鼓動が大きなリズムで重なり合う。私たちの間に流れる時間がゆっくりとしたものになり、この瞬間が永遠に続くような錯覚さえ覚える。静かな部屋に、二人の息遣いが溶け込んでいく。薄暗い空間の中で私たちは寄り添い、ただ互いの存在を感じながら心を委ねていた。触れる肌の温かさが、まるでこの空間を包み込み、すべてが私たちだけの特別なものに思えてくる。Linが私の髪に触れる。その優しい動きが波紋のように広がり、深い水面に一石を投じたかのように、心の奥深くに何かが静かに揺れ始めた。Linの目には何か大切なものを伝えようとする温かさが宿っていた。私の人生がこの瞬間、大きく変わった。

Linと私は寄り添いながら、まどろみの中にいた。Linの腕が私を包み込んでいて、その温もりが心の奥まで染み込んでくる。身体が解けていくような心地よさに包まれ、目を閉じると、Linのぬくもりと柔らかな香りが周りを満たしている。Linの心臓の鼓動が、私の胸のすぐそばでゆったりとしたリズムを刻み、それに合わせて自分の鼓動も落ち着いていく。私たちの間に流れるこの時間が、心の中で静かな喜びの波紋を広げていった。

互いに何も言葉を交わさなくても、この空間に流れる安心感がすべてを物語っていた。「ここにいてくれて、ありがとう。」言葉には出せなかったけれど、その思いが胸の中で響いていた。この穏やかさが、私にとってどれほど大切かを改めて噛みしめる。その瞬間が、まるで心の奥に優しく刻み込まれていくようだった。

Linの腕に包まれながら、私の心の奥では葛藤が渦巻いていた。Linの温もりと優しさがすぐそばにあるのに、それがまるで夢のようで、現実感が薄れていく感覚があった。温かく満たされる一方で、どこか心の片隅で小さな不安がささやいているのがわかる。「この道を選んで、本当にいいのだろうか?」。Linの呼吸が耳元で聞こえ、肌に触れる指先が愛おしく、私の心を安心で満たしていく。だけど、その安心感に身を委ねることへのためらいがあった。これまでの自分と、今ここにいる自分——その二つの間に、見えないけれど確かな境界があるようで、その境界を越えてしまった瞬間に、今までの自分を見失ってしまうのではないかという恐れがよぎる。

Linと一緒にいることで、私の価値観が変わりつつあるのを自覚している。それは怖くもあり、同時に未知の自分に出会える予感に胸が高鳴る気もする。Linと過ごすひとときがこんなにも心が安らぐのに、なぜかその背後にある不安が心を離れない。まるで、過去の自分が「本当にこれが望んでいる道なの?」と問いかけてくるかのようだった。

Linが私の背中を撫で、その指先の動きが優しさと愛情に満ちているのを感じるたび、心の中で揺れているその葛藤が、ほぐれていく。私の迷いや恐れをすべて受け入れてくれるような、包み込むようなその温もりに、次第に体が心地よく安らぎ始め、心の中で薄れかけていた何かが息を吹き返していく。

「私は何を恐れているのだろう」と自分に問いかけていた。Linといると、心がどこか自由に解き放たれていく感覚がある。今この瞬間、共にいることが私にとっての真実であり、そこにある愛情がすべてを満たしている。しかし、まだ心の奥に微かな不安が揺らいでいた。それは、自分が信じてきたものが変わっていくことへの戸惑いであり、そして、過去の自分とのさよならが待っているのではないかという恐れ。目を閉じて、Linの香りに包まれながら、私は深呼吸をした。今この瞬間が、どれほど大切で貴重なものであるかが、私の心に染み渡っていく。迷いがすべて消えたわけではない。でも、Linのそばにいるこの安らぎが、本当の自分を受け入れるための一歩であることに気づいていた。


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