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食事の時の文化的挨拶の話

日本で生まれ育つと、自然と食べる前には「いただきます」と言い、食べ終わったら「ごちそうさまでした」というだろう。各家庭によってこれをどの程度子供に教えるのかはわからないが、少なくとも学校教育でも「いただきます」「ごちそうさまでした」を言わされるのだから、これは日本人にとってかなり根強い文化的な食事に対する感謝だと思う。何となく言わないと少し悪いような、罰当たりな気がする人もいるかもしれない。

私が初めてヨーロッパに住んだのはイギリスだったが、イギリスにくるとこのような挨拶はない。「いただきます」は"Enjoy your meal"とか"Bon appétit"と訳されるかもしれないが、全く同じ意味に対応する言葉がない(後者はもともとフランス語だが英語でも使われる)。「ごちそうさま」はもっと難しくて思い当たる限り訳が見当たらない。呪文のように言い続けているから「いただきます」も「ごちそうさま」も深い意味を考えたことがなかったが、こちらでその話になった時は食事に対する感謝を表しているという曖昧な表現で納得してもらっている。

先ほど挙げたように英語にも食事を始める挨拶はあるのだが、しかしイギリスに住んでいた時に思ったのはほとんどの場合はそんなのはなく、みんな何となく食べ始める。ある程度食事が揃ったらとかみんなが揃ったらとかいうのはあるが、何か掛け声を言って食べ始めることはない。強いて言えばレストランに行ったり誰かの家に呼ばれて行ったりすると"Enjoy your meal"と言われることもあるが、日常生活で友達とご飯を食べる時には各自揃ったらムシャムシャと食事を始める。

このような例はイギリスやアメリカをはじめとした英語圏では当たり前で特に驚くことでもないのだが、フランスやイタリアをはじめとした食が命の文化圏がある大陸ヨーロッパではまた状況が違っていて、ほとんどの言語で「よい食欲を!」といった掛け声があり、これから食事が始まることが多い。フランス語だと"Bon appétit"、イタリア語だと"Buon appetito"、ハンガリー語だと"Jó étvágyat"である。ちなみに日本語の「いただきます」と違うのは食事に対していうのではなくて、食事をする人に対する声かけだ。

今住んでいるオーストリアはドイツ語圏なので、同じように"Guten Appetit"という表現がある。この用法は他の言語と一緒で、食事の時間になったら他人に対していう言葉で、言われた側はおおよそ「ありがとう」と返す。

ドイツ語にはもう一つ面白い表現があって"Mahlzeit"というのがある。文字通り訳すとしたら「食事(Mahl)の時間(Zeit)」なのだが、こちらは特別お昼ご飯の時間に使われるらしい。"Guten Appetit"に比べるともっとカジュアルな表現らしいので、おそらく友達とか職場の仲間ぐらいにいうのだと思う。

お昼の時間だけの食事の掛け声があることに何か特別な意味があるのか気になったが今のところ答えは分からない。特別にドイツ語圏の人が昼食に重きを置いているようにも見えないし…謎である。ただ"Mahlzeit"と言われると親しい関係のような気もするし、他の言語で聞いたことがないからか何だか特別に思ってしまう。

ちなみにこの"Guten Appetit"と"Mahlzeit"、両方食事とは関係なくただの昼間の挨拶として使われることがあるらしいのだが、言われたこともないし言ってる人も見たことがないので、どういう状況で使われるのか具体的に想像はつかない。しかしながらヨーロッパの挨拶を見ていると、食というのは食べることはもちろんだが人と人の社会的な営みであると感じる。日本の場合も家族で食べるのが基本単位だと思うのだが、何故そのような掛け声が生まれなかったのか不思議である(ただ日本語の挨拶のほうが何だか生命全体を意識して高尚な感じがするのは私だけであろうか)。