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コンビニのコーヒーマシンにふれる度もう地図にない景色が零れる

23歳は、優しいぬるま湯の中で生きていた。
「これでいいのかな」なんて思いながら、抜け出そうとする勇気はなかった。でも、優しさとあたたかさは確かにある場所にいた。

24歳の夏に転職してからそろそろ3年が過ぎて、前の会社のことをほとんど思い出せなくなった。
最初の会社は、転職市場で目安として言われる「とりあえず3年」も乗り越えられずに辞めた。「自分に転職する勇気などないだろう」と思っていた1年目の自分が聞いたら、きっと信じないだろう話だ。

辞めた理由は、よくある「異動で配属された営業という仕事に死ぬほど向いていなかった」に尽きるのでここでは割愛する。
ただ、去り際が辛かったから会社を嫌いになったかといえば、少なくとも嫌いではなかった。
私が辞めたのと入れ違いくらいに移転して、私が見ていたオフィスはもうないあの会社。その最初の1年は、穏やかに過ぎていったのだ。


「明日からは自分で働いて稼いで生きていかないといけないし、もう二度と長期休暇もないんだ、嘘っぽい」
そう思った3月31日をよく覚えている。社会人になるという実感も決意もなにもないまま、ただ押し出されるままに社会に出たあの春。

飛び込んだのは広告業界だった。
冷静に考えれば性格的に適性のない、流行の最先端を作り出すコミュ強だけを集めたようなキラキラした世界(の中堅企業の子会社)。
そこで自分の言葉で勝負したいと思った。志望動機と呼ぶには漠然としすぎて、そのまま面接では語れない動機だった。


何の具体的な計画性もないし、コピー100本ノックとかできる気がしないし、接待をこなせるコミュ力はない。
けれど「なんかいつか、コンプラもちゃんとしつつ若手の意見も聞いてくれるような会社に入って、自分の関わった企画が具現化したものが主要駅のサイネージをずらりと埋める」なんて夢見ていた。
業界の先輩社員たちは、高学歴で顔面偏差値も高くて流行にも敏感で、服も髪もメイクも手を抜かず、人付き合いがうまくプライベートもびっしりと予定がある(ように思われがち)。その中にいれば、自分もそうなれるんじゃないかと思った。

そんな甘い夢を見ていた。グランデサイズのフラペチーノにハチミツとシロップとキャラメルソースとチョコレートソースを突っ込んだような甘さだった。
今ならわかる、あの業界の人たちは「ああなりたかった」自分像に近しい。だからこそ憧れて、でも「ああなれなかった」自分像だったからこそ私は辞めてしまったのだ。


1年目の春は東京での研修から始まった。
主な大手~中堅クラス企業の新入社員を集めた研修だった。憧れの世界を牽引する会社に入った、同年代の人たちと話すのは楽しかった。

彼ら彼女らは頭が良くて、理路整然とした話をしっかりした意思を持ってハキハキ喋れて、人当たりがいいのに主張すべきことはしっかりする。もちろん清潔感があって見目もいい。誰とでも分け隔てなく接するコミュ力があって、性善説に基づいて生きてるんだろうなってくらいポジティブに人を評価する。
もちろん全員が最初からそうなわけじゃなく、努力してそう振る舞えるようになった人もいただろう。
でも誰もそう「振る舞っている」と感じさせない、素で生まれも育ちもきちんとした人なんだろうなと思える世界。スクールカースト上位の人間だけを集めたような、眩しい憧れの世界だった。

ワークショップでブレストをしながら、こんなことを考えている同年代がいて今一緒にいるんだと、聞いていてワクワクした。
けれど今思えば、私の中には彼ら彼女らと同列に並べるような、人をワクワクさせる発想なんてなかった。


要は「消費者が発信者側に回れば良い仕事ができるわけではない」典型的パターンだったのだ、私は。
その時点から私は傍観者かつ消費者側でしかなくて、感想は言えても企画や具体的計画は何もない。
消費者の立場で夢を見てばかりで、広告の役割や思惑、どんな問題があってどう変わっていきそうで、どうすれば課題を解決できるかなど深く考えていない。それを見抜かれたからさんざん大手~中堅には落ちた。
今ならそう分かるけど、当時はそれでも「どうにかこの人たちに付いて行かなきゃ、並ばなきゃ」と一応思えてはいた。眩しい憧れの世界に居続ければ、いつかは私も同じようになれるんじゃないかと、まあなんとかなるかとなんとなく思っていた。


問題は、東京研修から勤務先に戻ってからだった。
東京で聞いたような最先端の話は遠い世界の話。あれは研修というより、成功例の披露だった。

幸いにして、向いていないと確信していた営業ではなく内勤に配属された私は、日々媒体社に送るデータのチェックと媒体社とのやり取り、データに何かあった際の営業への連絡、あとは順番通りにデータを入力するだけのちょっとした経理作業などを担当していた。
描いていた世界とは違う、正直華やかではない仕事だったけれど、その分穏やかで私は案外嫌いではなかった。

今思えばずいぶん甘やかされた新人だったのだ。
電話は営業部が受けるから内勤は取らない。飲み会の企画や店の手配や予約は営業部の一番若い先輩が担当してくれる。お昼ご飯は社食ときどき外食で、どちらにしても上司が自分の分のお釣りを渡してくれるから負担は数百円。本当にぬるま湯みたいな温かい場所だった。


媒体部にはいろんな人が出入りする。デザイン会社の人、同じビルに入っている媒体社の人、昔この会社にいた人。どの人も新人を可愛がってくれた。
とりわけ可愛がってくれたのは、部署の方々と長年の付き合いがあって、新人や若手のことは孫みたいに構ってくれる媒体社のベテランさんだった。

当時会社の目の前には交差点があって、斜めに横断するとコンビニがあった。運が良ければ1分でコンビニに辿り着く距離だ。
ベテランさんは媒体部のフロアにやって来ると、そのコンビニで買ったスナック菓子やシュークリームやプリンなんかを差し入れてくれた。


時々あったのが、私に千円を握らせて『ちょっと人数分コーヒー買って来て』と外に出してくれることだった。
ただ、恥ずかしながら学生時代まで紅茶党で、コーヒーを飲む習慣も買う習慣もなく、そもそもコンビニをよく利用するほど都市部に生きていなかった私は、最初はコンビニコーヒーの買い方がわからなかった。

だから最初のうちは『数が多いから一緒に行きな』と共におつかいに出た、先輩の所作を見様見真似でコーヒーを買った。
3回も同じことがあればひとりでも買えるようになって、頼まれるのがアイスコーヒーからホットコーヒーになる頃には、プライベートでもコンビニでコーヒーを買うようになった。あのコンビニならブラックでも飲めると知った。


マシンの使い方を覚えた、やわらかい湯気を立てるコンビニのコーヒーと、コンビニスイーツ侮りがたしと評判のシュークリーム。
描いていた華やかさも引き換えのハードワークも重い責任もない代わり、仕事中にそれを楽しんでいられる。

たぶんあの春東京で会った同期たちとは全く違う穏やかな日々だった。もう少し給料があったらいいなと思うことはあったけど、この穏やかさを失ってまではいいやとも納得していた。
時々、駅ですれ違う人が多くなる週末の夜にふと「私はこの仕事をずっとやっていくのかな」「もしいつか転職するとして、私は何を得たと言えるんだろう」と思うのも確かだったけど、悪くはないと思っていた。


それでも結局仕事内容が変わったら耐えられなくて、転職先をあっさり見つけてあっさり辞めた。

最後の日にある上司が言った『辞めるからってこれで最後じゃないからね』の言葉は『嘘じゃん』と思った通り嘘だった。
でも『今日を最終出社日に辞めます』と言ったその日の夜、わけもわからないうちに辞める2年目の送別会が急遽開かれて、社長や役員以外のほとんどの社員が見送ってくれた優しさは忘れない。

送別会のあと地下鉄を降りた瞬間に急に「明日からはしばらくなんにもない」とぽっかりした気分になってしまって、最寄駅前のコンビニに入った。
自由、おめでとう、わたし。そう思って打ち上げみたいな感覚で、いくつかデサートを買って店を出た。自転車の鍵を取り出そうと下を向いた瞬間、急に喉がヒリヒリして涙が出そうになった。涙を零さないように上を向いたら、近視の視界の中でさらに半月がぼやけていた。そのことも覚えている。


今の私に残っている、あの会社で得たものはいくつあるだろうかと考える。
東京で見たキラキラした世界の片鱗。その研修資料。入社式で会ってもう一生会わない、誰もが知っている企業の重役の名刺。定期券の買い方と使い方とチャージの仕方。部署の先輩がくれた、ディズニーランドのお土産のサインペン。うっかり辞める時に持ち出してしまった、印刷データへの赤入れ用のフェルトペン。

緊急事態宣言中に大掃除していたら出てきた、ベテランさんからの『この前はお茶出しの手伝いありがとう』のメモとクオカード。忘年会のあとに上司や先輩と撮ったプリクラ。
転職する動機。『あなたの人生だから、次が決まっているなら引き止めないから進みなさい』という厳しい優しさ。コンビニのコーヒーの買い方。
この日々が何に生きるのだろうと思っていた私、今も、あの頃は想像つかなかった5年目の今にも生きていることはちゃんとあったよ。


何も返せなかった私を、忘れてくれていたらいいなと思う。
でも私の中では、今もふと零れてくる記憶がちゃんと生きている。

何かを感じていただけたなら嬉しいです。おいしいコーヒーをいただきながら、また張り切って記事を書くなどしたいです。