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物語食卓の風景・昭和家族の妻⑤

 都心の百貨店で孫の誕生日に渡す洋服を買い、お気に入りの神戸コロッケを買って帰路についた立花洋子。駅からの道で、お隣の馬場さんに会い、商店街で昔を回想しつつ、ようやく夫が相続した家に帰りつく。先週の記事はこんな感じでした。

 鍵を開けようとして、ドアが開いたままだったことに気づく洋子。趣味の囲碁へ出かけているはずの夫が、もう帰宅したのだろうか。「ただいまあ」と言ってみる。でも、何の返事もなく、家の中は心なしかいつもよりがらんとした雰囲気である。

 あの人、また鍵を開けっぱなしで出かけちゃったんだわ。一戸建ては泥棒に入られやすいのに。

 洋子はブツブツ思いながら、とりあえず台所でお湯を沸かし、生暖かい状態になっているコロッケを包みから取り出す。皿に移し替えて、電子レンジに入れて温める。その間にお湯が沸き、お茶を淹れてようやくコロッケを口にする。

 このさっくりしてうま味が強く、ジャガイモの味もするところが好き。私がつくっていたコロッケよりうま味が強いわ。ジャガイモはちょっと少ないけど、商店街のコロッケに比べたら多いかしら。ギトギトもしていないし、おいしいわ。これ、近所でも売ってくれないかしら。

 お茶をすする。ふと時計を見上げた洋子、夕方5時を過ぎていることに気がつく。

 あら嫌だ。もうこんな時間。夕ご飯の支度をしないといけないのに、コロッケを食べてしまった。今晩は、ご飯と味噌汁だけで済ませたいぐらいだけど、うちの人はメインが揃って最低でも一汁二菜じゃないと納得しないのよね。前に、具だくさんのサラダが流行ったときに、サーモンとハマチのサクを買ってきて、シーフードサラダをつくってみたことがあったわね。そのとき、ボリュームたっぷりだからと味噌汁をつけただけにしたら、うちの人、食卓を見るなり「肉とか魚はないのか」ですって。

「これは主菜になるシーフードサラダなのよ。お刺身が、サラダの中に入っているでしょう?」と言ったら「これはサラダだ。サラダは肉につけておくおかずだから、メインじゃない。ちゃんと肉か魚を別の皿に用意しておいてくれよ。こんな生野菜ばっかり、おれはウサギじゃないんだ」とぶぜんとしていたわね。

 「ウサギじゃないんだ」ってセリフ、久しぶりに聞いたわね。あれは亡くなったお義父さんが言っていたのよ。明治生まれのお義父さんは食に頑固で、お義母さんは料理好きなのに、「洋食はほとんどつくらせてもらえなかった」と残念そうにおっしゃっていたわ。お義母さん、『きょうの料理』をよく観て研究していたのよね。村上信夫さんが好きだっておっしゃっていた。それでも、たまにはハンバーグとかつくってみるけど、付け合わせにサラダをつくったら「おれはウサギじゃない」と言うので、あわててキャベツを茹でたりしていたっておっしゃっていた。明治生まれは、生野菜を食べないのかしら。あのときのあの人のしゃべり方、お義父さんそっくりだった。

 それで、しょうがないので、次の日に使おうと思って冷凍庫に入れておいた豚ロース肉を出してきて、トンテキにしたわよ。あれは、とんかつにしようと思っていたのに。それに、肉を焼くまで食べられないから、ご飯はお預け。すっかり夕食が遅くなって、楽しみにしていたテレビの番組も観られなかったのよね。あれ、何の番組だったかしら。

 本当に、あの人は縦のものも横にもしない人だから。洋服は脱いだら脱ぎっぱなしだし、出張のたびに私が下着やらカバンに詰めてあげなきゃいけないし、ゴミ出しすらやってくれない。「大の男がそんなことできるか」って。そういえば、若い頃、私が風邪で熱を出したので「悪いけど、洗濯物を取り込んでくださらない?」と言ったら「大の男が、洗濯物を取り込む姿をご近所に見られたらどうするんだ」とやってくれなかったわ。あのときは冬で、けっこう寒かったのに、夕方ベランダに出て、洗濯物を取り込んだんだったわ。みじめな気分だった。こんな人と結婚してしまったんだわ、と寂しい気分になったのを、今でも覚えている。

 こんなこと思い出している場合じゃないわ。夕食の支度。今日は何にしようかしら。あ、その前に着替えなくちゃ。すぐにコロッケを食べたかったから、よそ行きを着たままだし、そういえばお化粧も落としていなかったわ。

 洋子は洗面所に行き、化粧を落として顔を洗うと、今度は寝室へ向かう。ドアを開ける。すると、タンスの前に洋服がぐちゃぐちゃに転がっている。「泥棒!やっぱり入ったの?」と焦る洋子。しかし、窓は閉まっているし、台所や居間はいつもの通りで引き出しも開けられていない。ドキドキしながら散らかっているさまを観察すると、落ちている衣類の大半が、夫の秀平のもので、洋子の洋服はあまりない。

 押入れの戸が開いているので、観てみると、スーツケースがなくなっている。もう一度、リビングダイニングへ戻る。ふと見ると、居間のテーブルに書き置きがある。「しばらく旅に出ます」と秀平の字で書いてある。

 洋子は、書き置きを手に呆然と突っ立っていた。

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