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コースは「間接的なアプローチ」をとって非二元に至る霊性の道である

自我をありのままに見る

コース(奇跡のコース/奇跡講座)は非二元(一元論)のスピリチュアリティ(霊性の道)であるということは言うまでもありません。

ただし、コースは非二元(真理)に至るまでのアプローチとして間接的なアプローチをとっていくところが、他の非二元のスピリチュアリティとはちがった特徴的なところだと言うことができます。

つまり、直接的に神と合一していくような一般的な非二元のスピリチュアリティ(霊性の道)とは異なるということです。

そのためのコース学習者として私たちがしていく実践が、「赦し」と呼んでいるものです。

赦すとは、自我を直視する、幻想を直視する、闇を直視する、という言葉で表されるように、つまり、見る(looking)ことをしていくわけです。

実在しないものを実在しないもの(虚偽)として見ることをしていくということです。

それは、真理にフォーカスするのではなく、真理ではないものを見つけ出して、それを取り消していく作業なのだということです。

そして、私たちにとって大事なことは、その実践をしていくために、つまり、自我を(虚偽として)見ることができるために、

自我(の思考体系)とはいったいどういうものであるか?
そして、
その自我が作り出したこの世界とはいったいどういったものであるか?

ということについて、私たちはまずコース形而上学を学んで、そして理解する必要があるということです。

コース形而上学(思考体系)が根付いていくとき、私たちは次第に自我を裁くことなく、咎めることなく見ることができるようになっていきます。

コースでは、それを「聖霊と共に見る」「聖霊のもとに運ぶ」というふうに表現しています。

コースの実践では、自我、幻想、闇といったものを聖霊と共に直視するということをしていくのだということです。

ようするに、真理や神や愛や光といったものにフォーカスしていくようなアプローチとはまったく真逆なわけです。

そう、コースは間接的なアプローチを取っていくスピリチュアリティ(霊性の道)なのだということを覚えておきましょう。


「私」の改善や向上は目指していない

上記でも述べた通り、コースの実践では、「聖霊と共に見る」ことをしていきます。

そして、それが「自我を咎めずに見る」ということの意味です。

「咎めずに見る」とは、ジャッジ(価値判断)なしで見るということです。

それは、ありのままに見る、ということでもあります。

そのようにして、私たちは自我の思考体系と同一化している状態から脱却して、最終的には、聖霊の思考体系へと完全に同一化していくことを目的としているのだということです。

ですから、自我を咎めずにありのままに見れるようになるために、私たちはまず自我(の思考体系)についてしっかりと知的に理解しておくことが必須となります。

だからこそコースの思考体系(形而上学)の学びとその理解が私たちに求められているのです。

コースの思考体系(形而上学)に基づいたところから自分(自我)を観察する(見る)とき、

自我と同一化してる「私」は何をしているか?

それが、ありありと自覚/認識できるようになっていきます。

その自我(「私」)が何をしているのか?

というなら、

いつも自分の周りに敵となる加害者やひどい状況を知覚しては、その影響を受ける脆弱で無垢なる被害者のフリをしている・・・

と言うことができます。

そう、外側の世界に翻弄され続けることを、自分で自分にしているということが明らかになってくるわけです。

そして、私たちはその「私」=自我がしていることを咎めずに見る(正視しする)という訓練をしていくのだということです。

それは、「私」を改善していく、向上させていく、というのとはまったちがいます。

その「私」を改善したり、向上させたりすることは目指してはいないということです。

というのも、そもそもが、その「私」などいないのですから。

このコースは、「私」=自我を改善し、向上させていくような霊性の道ではないということです。

これが、重要なポイントです。

私たちがしなければならないのは、ただ自我を聖霊と共に(咎めずに)見ていくだけです。

そうすることによって、自我は虚偽であると認識されるとともに、自我の実在性が取り消されていくのです。

むしろ「私」を改善、向上させようとするなら、それは個別性、つまり自我を実在化させることになります。

そうするなら、自我をリアルにするだけでなく、自我と戦うことになっていくだけです。

何度も申しますが、私たちがしていくのはそうではなく、自我を「見る」(llooking)ことをしていくということです。

それが、「赦し」というものです。

「赦し」のまなざし(聖霊の視点)から見るならば、自我には何のパワーもないと分かります。

それというのも、その視点は分離の夢全体を包含したところからそのすべてが全一に虚偽(幻想)であることが認識できるからです。

この「私」もこの「世界」も、自分がただ実在化させていただけだったということに気づくことができるからです。

私たちがしていくのは、それだけです。

自分が作り出したもの(幻想)をしっかり正視しなさい!ということです。

これまでとまったく別の見方で見たいのか?

その意欲があるかないか?

私たちは、毎瞬毎瞬、それが問われているのです。

聖霊と共に見ていくならば、この世界の夢(幻想)のすべてを看過して見るようになるでしょう。

それだけでなく、いまここに、そしてあらゆるところに愛の臨在を知覚するようになるでしょう。

それは、天国を反映した世界を知覚するようになるということであり、それがコースで言う「実相世界」と呼んでいるものであり、それこそが、コース学習者である私たちが目指しているものであるわけです。

そう、コース学習者の私たちはその「実相世界」を経由して天国(実相)へと目覚めていくのだということです。

いわゆる、それがコースは間接的アプローチをとってわが家に帰るということの意味であるということをしっかりと理解しておきましょう。


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