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【短編小説】空を泳ぐ 二

 話は一週間前にさかのぼる。その日純は日直でクラスの日誌を職員室から教室に運ぶ係りを担当していた。通常この係りは男子が担当するのだけど、黒板消しがどうしても苦手な純は相方の男子に頼んで係りを代わってもらったのだった。長身で体力もある純をみてなんの迷いもなく係りは交代されたのだった。 

 帰りの会の少し前、純が職員室を覗くとクラスメート30人分の日誌は整然とかごに入れられ、純に運ばれるのを待っていた。「うんしょ」とかごを持ち、教室を目指す。さすがに30人分の日誌は重く、純は気合いをいれてかごを持ち直し教室を目指したのだった。

 その時である。足がもつれてしまった純はその場で転倒してしまった。バラバラと音をたててその場に散らばる日誌たち。慌てて日誌をかき集めようとしたのだけど、なぜか呆然としてしまって体が動かない。

 「あー」と思っていたところに駆け寄ってきた人物がいた。クラスメートの田中明宏である。明宏は「大丈夫?」と声をかけると、あっという間に日誌をかき集め、純に今すぐ保健室に行くようにすすめた。日誌は僕が運んでおくから、と。純が恐縮していると、明宏は「期待のエースは体を大切にしなきゃ」と言い残してさっさとかごをもって教室に行ってしまった。

 その後とくに捻挫などのけがも見当たらなかった純は、保健室で二度驚くこととなった。なんと明宏は帰りの会のあと、わざわざ保健室をたずねてきてくれたのだ。放課後は皆部活で忙しいから、たずねてきてくれる友人はいないだろうなと思っていたので、意外な訪問者に純は驚きを隠せないでいた。

 少し休んでから帰るようにと指導をうけていた純はそこで明宏とほとんど初めての会話を交わすことになったのだった。

 「さっきはありがとう」と純が伝えると、明宏は「当然のことをしただけだから」となんということもないそっけない返事をした。「でもどうしてお見舞いまできてくれたの」と純がきくと、明宏は少しの間だけ間をおくと、「山田さんの泳ぎが好きだから」と簡潔な答えを示した。

 「泳ぎ?」と純が怪訝そうな表情を浮かべると、「そう。僕は全然泳げない、いわゆるカナヅチだから」と明宏はこたえた。「でも泳ぎが得意な人なら他にもたくさんいるよ」と純が言うと「山田さんはなにかとても楽しそうに泳いでるから。そこがとてもいいと思ったんだ」と明宏はこたえた。

 図星である。純は泳ぐことが好きだった。だから周囲の期待を重く受け止める責務からは一人解放されていた。少し言葉を迷ったのち、純はやっとの思いで「ありがとう」と伝えたのだった。恐る恐る明宏の表情を伺うと彼はどことなく照れたような表情を浮かべていた。

 その日からである。明宏のことが気になって仕方がなくなったのは。思えば男子から「好き」と伝えられたのは生まれてはじめてのことだった。たとえそれが「泳ぎ」であっても意識してしまうというのが本音だと純は思った。

 明宏はその場の成り行きで適当なことを言うような人間ではないということが、彼の生活態度のはしばしから感じられた。とても真面目な生徒である明宏は成績も優秀で先生たちのおぼえもめでたい男子だった。目立つ生徒ではないのでまじまじと顔をみたことがなかったのだけど、彼はなかなかにキレイな顔立ちをしていることがこの前の談話で分かった。活動しているのかしていないのかよく分からない「パソコン部」に在籍。「僕は運動があまり得意ではないから」と明宏は言っていたが、水泳以外はからきしの純は彼の気持ちがなんとなく分かるのだった。

 明宏のことを考えるとき、純の心は不思議と空を思うのだった。美しく晴れた青空を。その青空のもと純は深く息を吸い込み、自分の輪郭を意識する。人を好きになるということは不思議だなと純は思った。本人の前にでるとどうしようもなく心臓が高鳴り、動きさえも心なしかぎこちなくなってしまうのに、こうして一人彼のことを思い返しながら時間を過ごしていると、なんとも形容しがたい暖かで満ち足りた気持ちに包まれるのだから


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