見出し画像

時夫 一 (短編小説)全七回

 時  万物・宇宙・生物に与えられた変えられない法則

 名前の由来についてか。井上航(わたる)は学校の宿題を前に頭を悩ませていた。今日の国語の時間に宿題がでた。それは自分の名前についての由来を書いてきなさいというものだった。学校の授業ではちょうど名前にまつわる物語を習ったところだった。せっかくだから、自分の名前がどのようにつけられたのかそれぞれ知っておこうと先生は考えたのだ。分からない場合はお父さんお母さんにきいてきてもよいからと。明日の国語の時間に発表してもらうと先生が伝えた時には、当然不満の声が教室中からきこえてきた。先生はそれを無視して、小さい用紙を配った。そこには五行の枠線がひかれており、上の方には例として先生の名前とその由来が書かれていた。

5年2組担任伊藤健太郎 ぼくは生まれた時に未じゅく児で生まれました。未じゅく児というのは生まれた時の体重が2000g未満の赤ちゃんを指します。本来はもっとおおいものです。心配した母親がとにかく健康な人に育ちますようにと願いをこめてこの名前をつけてくれました。おかげで今では元気いっぱいです。ぼくは自分の名前がとても好きです。今日までぼくをささえてきてくれました。

 こういう細やかな気遣いができるのは先生ならではだろうと航は思った。航は伊藤先生のそういう誠実なところが好きだった。しかし航は先ほどから一向に由来を書き進められない現状に困り果てていた。航は自分の名前があまり好きではないのだ。父親は大海原を勇ましく進んでいく船のように、スケールの大きな人間に育ちますようにとの願いを込めてつけたらしいが、どうやらその願いを叶えることはできないだろうと航は思った。航は背も前から数えて三番目、成績も中の下、走りでも平均タイムを大幅に下回るという悲しいほどに取柄のない子供だったからである。父親の願いをそのまま紙に書けば、おそらくクラス中の笑いものになるだろうと航は考えた。だからこそ航は頭を悩ませているのだ。どうしたらクラスの皆から笑われないような、それらしい由来を書けるのだろうと。

 結局のところ、航は父親が船が好きだからという理由で自身の名前が航になったのだと説明することにした。そしてその理由を何とか五行の文章にまとめ上げることに航は成功したのだった。これで明日の発表会も乗り切れるはずである。航は安心して眠りについた。

 翌日。3時間目の発表会に向けてクラスメートたちは何となくそわそわしているようだった。航ももちろんその一人だった。クラスメートたちはどんな発表をするのだろうか。特に航の斜め向かいの日葵(ひまり)ちゃんは自身の名前についてどう説明するのだろうか。航は日葵ちゃんのことが気になって仕方ないのだ。いつも明るい笑顔を絶やさない、クラスの人気者の日葵ちゃん。長い髪がつやつやしていて、声まで可愛い日葵ちゃん。航は自分の頬が熱くなるのを感じていた。

 そうしてやってきた3時間目。まずは担任の伊藤先生が自身の名前について紹介した。書いた例を読み上げただけだったが、先生の狙い通りそこからは随分とリラックスしたムードで発表会が行われた。発表の順番はあいうえお順だったので、航の順番はかなり早くまわってきた。航は緊張した面持ちでその場に立ち上がって用意してきた文章を読み上げた。

5年2組 井上航 ぼくの名前はお父さんが船を好きだったからこの名前になりました。わたるという文字は「こう」とも読みます。海を船で進むことを「航海」というのだそうです。お父さんはわかいころ船に乗る人になりたくて、でもなれなくて生まれたぼくにそうなって欲しいという思いをこめてつけたのだそうです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?