【エッセイ】花祭りの里へ

 高校大学と同じ学校に通っていた友人がいた。(ついでに高校の部活も一緒だった)彼女の名前をTちゃんとする。Tちゃんとは学科は違ったが妙なところで気が合うので、私は彼女と話をするのを楽しみにしていた。Tちゃんは『花祭り』の研究を熱心にしていた。ここでいう花祭りとは釈迦の誕生日を祝う仏教行事のことではない。愛知県北設楽郡の東栄町に700年以上続く伝統的な神事のことである。Tちゃんはこの祭りに完全にはまっておりシーズンになると(花祭りは毎年11月から3月の間、東栄町の各地域で順番に行われている)、寝袋を車に積み込んで意気揚々と出かけていくのであった。話の流れで私も一度お供したことがある。Tちゃんをここまで魅了する花祭りとはどういうものなのか、一度この目で確かめてみたいと思っていたのだ。こうして自ら「花狂い」を自称するTちゃんと共に一路花祭りの里、東栄町に向かうことになったのである。

 彼女の車で東栄町に向かう。私も人のことは言えないが、彼女の運転はカーブのときにやけに大きく膨らむ。私たちはお互い笑いあったり、古いアニソンを口ずさんだりしながらその道中を楽しんだ。花祭りの会場に着く頃には既に夕刻をまわっており今まさに舞が始まろうとしていた。しめ縄で囲まれた舞庭(まいど)を市の舞や地固めで清めるところから花祭りの舞は始まる。続いて舞い手の年齢に応じて花の舞、三つ舞、四つ舞と続いていく。その間にはこの祭りで最も重要とされる鬼が現れる。鬼は大地に新しい活力を吹き込み、五穀豊穣・無病息災をもたらすといわれている。外には火が焚かれており鬼が踊りの途中で出てきて、まさかりで薪をはねあげる一幕も。こうして前夜から翌朝にかけて祭場の中央にある大釜に湯を炊き、その周りで舞は休むことなく続けられるのである。

 何というかとても原始的な祭りである。水と火のまわりで舞い踊るなんて、ある種のトランス状態といえるだろう。「てーほへてほへ」の合図を口ずさみながら、私たちは文字通り夜を徹して踊り狂ったのである。そして祭りの終盤においてワラを束ねたタワシ(湯たぶさ)をもって舞いが行われ、参加者は窯の湯を振りかけられる。これを「湯ばやし」と呼び、この湯をかけられると一年健康に暮らせるといわれている。最後には「獅子」とよばれる鎮めの舞により祭りは終了となる。本来は舞が始まる前に「神迎え」の儀があるのだが、こちらの方は見学していない。全体を通してみると神招きから始まり、神返しにおわるという古くからの祭事の形式がとられていることが分かる。この祭りの意義は、冬の間に衰えた太陽と大地の生命力を呼び覚ますためのものとされている。地面を力強く踏みしめるのもこのためである。それは「死と再生」の儀式であり、人々は力強い太陽の輝きを待ち望んでいるのだ。そして祭りは普段私たちが隠し持っているエネルギーを解放する場所としての意義もある。昔から人はうれしい時も悲しい時も踊りに身を委ねてきたのだ。私は心理学を学ぶ人間として、Tちゃんとはまた違う視点から花祭りを見守っている自分に気づいた。私は「花狂い」とまではいかないものの、是非またこの祭りを体験してみたいと思った。

 花祭りの現状はどうなっているのだろうと調べてたら、やはり少子高齢などの影響でその存続はなかなかに厳しいらしい。事実布川地区というある地区では2019年の3月で祭りの休止を決めたとのこと。これからますますこういうことが全国各地でおこるだろう。その存続の第一歩としては私たちが古来の伝統に意識を向けていく他ないと思われる。

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