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連載小説『舞い落ちて、消える』prologue 2020/7/4

    雨の匂いがする季節に生まれたかった。オレンジ色の空から夕立が庭の土もアスファルトも屋根も街も全部濡らして、その後に残った少しまとわりつくような空気の中、濡らされた様々なものたちが放つ香りが混ざった、あの匂いが好きだった。いつから好きだったのか、何がきっかけで好きになったのかも覚えていない。それどころか、それがどうして好きなのか、も僕には到底説明できそうになかった。理由なんかなく、僕はそれが好きだったのだ。いや、理由はある、きっとある、確かにあるはずなのに、それを言語化することができない。世の中にはこんなに言葉が溢れているというのに、肝心なことは言葉にできない。思い返せば、これに関わらず、僕は自分が好きなものを好きな理由が言えないことに気づいた。嫌いなものの理由はすぐに言語化できたのに。きっとそういうものなのだろう。それが僕だけのものか、他の誰しもに当てはまるものなのかはわからないけれど、本当に好きなものは言葉で説明できないのだ。きっと僕がこれまでそれなりに好きな理由を説明してきたものは、その有り合わせの語彙で賄えるほどのもので、もしかすると、嫌いじゃないだけで、本当はそんなに好きでもないのかもしれない。「嫌いじゃない」と「好き」は隣り合わせではあるが、双方には大きな隔たりがあるのだと思う。
 
 記憶は匂いだ。何かを思い出すときに僕は匂いと共に思い出す。初めて登った山でしていた湿った草花の匂い、泳げなかったプールにこびりついていた塩素の匂い、何気ない食卓の母親の晩ご飯の匂い。匂いが僕の記憶を喚起し、彩りをもたらす。匂いがなければ記憶が生まれない。僕は自分が生まれた季節の匂いがわからない。桜がとうに散ってしまって、草花が緑に茂り出す頃の匂いを僕は幼い頃から感じ取ることができなかった。後少しすると梅雨の季節になって、僕の好きな匂いの季節になるというのに。そのせいで僕は自分の誕生日にこれといった記憶がない。

 新宿に降り立つには、あの件があって以来のことだった。13年経つらしい。ずっとこっちに住んでいて、新宿に行かないことなんてあるだろうか。僕は敢えて避けていたように思う。実際にこの場所を待ち合わせにした誘いは全て断るか場所を変えるかしていた。この街は13年前と何が変わったのだろうか。朧げな、けれどもはっきりとした記憶の中で街の様子はモンタージュのように的を射ない。きっと変わってしまったと思う。変わってしまった上で、変わる前のことを思い出せないのなら、それはそのままそこに存在したのと同じなのだろう。僕はそれ以上考えるのを止めて、東口方面から地下街へと向かった。何処に向かおうということはなかったけれど、僕には目的地がはっきりとあるように思う。今日、ここでやるべきことがある。だから13年ぶりにこの場所に来たのだ。途中、通りかかった花屋で色鮮やかな紫陽花が目についた。つい近寄って見てみると、瑞々しい甘い香りがする。雨に濡れていない分、僕の好みの香りではなかったけれど、花瓶に数本収まっている薄青色に染まる萼に僕は目を奪われた。
「紫陽花をお探しですか」
店員の若い女性に声を掛けられる。おおよそ歌舞伎町にはそぐわないナチュラルさを感じる人だった。不意に話しかけられたことに少し戸惑いながらも、僕は、綺麗ですね、と返す。
「紫陽花を切り花にして売っているのは珍しいんですよ」
よくいる店員の押し売りとは一線を画したトーンで彼女は僕に説明した。
「紫陽花の茎には白い綿のようなものが入っていて、そのまま切り花にすると水が上がっていかないんです」
彼女は挿してあるものの一つを取り出すと、茎の根の部分を丁寧に布で拭き取った。
「その綿を掻き出して、根元の皮の部分を剥いてあげると、ようやく切り花になるんです」
彼女が見せた部分は丁寧に剥かれた後があり、その部分だけが綺麗な薄緑色をしていた。きっと彼女が剥いたのだろう。口調の丁寧さと調和している。僕は彼女の仕事に敬意を表して紫陽花を1本購入した。1本だけ購入したのだから、そんな客をぞんざいに扱ってもらって良かったのだけれど、彼女は僕に移動時間を訊き、ちょうど良いくらいの水分を湿らせた布を巻いて、1枚包装紙に包むと、丁寧にお辞儀をして送り出してくれた。そんなに丁寧にしてくれるのなら、もう少し何か買えばよかった、と後悔したけれど、今さら何も言うことができず、僕はお礼を言うと、店を後にする。

 腕に収まった紫陽花を今一度見つめてみる。薄青色の萼はまだ僕の心を魅了する。甘い香りも鼻に届く。地下に入ったから分からないが、天気予報では今日一日雨が降ったり止んだりするらしい。雨が降ればこの紫陽花を濡らしてみようか、そうすれば僕のより好きな匂いになるだろうか。そんなことを考えながら歩いているうちに、僕はやはり彼女のことを思い出していた。紫陽花を持っているのだから当然なのだった。僕は彼女のことを思い出すために紫陽花を買ったのだろうと思った。そのために、この紫陽花は僕の目を奪ったのだろう、と。

 そう、朝美は梅雨の季節に生まれた女性だった。
    彼女との思い出は紫陽花と共にあった。

 紫陽花は彼女の花だったのだ。

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