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誰にも選ばれない

ここ数年ずっと抱いている気持ちがあって、最近までそれを言語化せずに逃げてきたのだが、いよいよ逃げ場がなくなったときにふと言葉になった。
それは「私は誰にも選ばれないんだ」という気持ちである。
親友もいるし、実家に帰れば家族もいるし、職場での人間関係も良好だ。(2年ほど彼女はいないが)
だが誰にとっても私は2番手3番手(これは言葉の綾で、本当はランク外だろう)であって、決して一番最初に選ばれる人間ではないという気持ちをずっと抱いている。
なんなら誰にとっても「別に関わらなくて良い相手」なのだと思っている。
それでも私は一人は嫌なので、コミュニケーションを取ろうとするのだが、「誰にも選ばれない」私はそれもうまくいかないのである。
みんなには既に「選んだ相手」がいて、その人にも「選ばれていて」、その人たちと楽しくやっている。
だから誰にも選ばれない私は、一人で隅っこにいるしかない。
いつからこういう気持ちを抱くようになったのか、原因はなんなのかと考えるつもりはない。生育環境のせいにしようと思えばできる。
だが重要なのは、私が今ずっとそのような気持ちを抱いているということだ。普通に辛い。

今年で私はもう25になるが、段々と周りも結婚したり、恋人がいたり、仕事が忙しかったりして、会いづらくもなってきた。
小学から高校まで一緒だった親友が仕事で忙しくなり連絡がほぼ取れなくなった時は流石にショックだったものだ。
最近は昔の女友達に近況でも聞こうと思って連絡したら、「彼氏いるから」と露骨に冷たくされたりもした。もとよりそんなつもりは毛頭ない。男がみんなち○こだけで歩いていると思ったら大間違いである。
「男が一人でもいるとだめ」と彼氏に禁止されているという理由で集まりに来なくなった部活仲間もいた。
逆に元カノに昔、「家族が一番で、友達が二番で、彼氏が三番」と言われたことがある。それははなから優先順位をつけて行動するものではなく、その状況次第で変動していくものなのだと言いたかったが我慢した。思えば、身長で私を馬鹿にしたりする嫌な女だった。

とにかく、そうやってみんなが選び選ばれていく中で、私だけがいつの間にか疎外され、一人になってしまった。
しかし人を「選ぶ」とは、なんて傲慢な言葉なのだろうか。
そんな傲慢な「選ぶ権利」を持っている人間と、「選ばれる価値」のある人間はほとんどイコールだ。「選ばれる価値があるから選べる」と言える。
全くもって嫌な世界だ。
選ばれないことを悲しむ一方で、そんな世界からは抜け出して、不羈の精神で生きていたいとも思う。


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