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信号待ちのプチ陰陽

暴雨一過の炎天下、ハゲは信号待ちをしていた。防御が欠落した頭皮はひりつき、毛根からDNAが蒸発せんばかりである。束の間の涼しさを求めて、ビルの日陰に移ってみた。そこには祝福されるべき温度が漂っていた。陽から陰へ。ささやかな陰陽は、日々の日常に宿っている。

そして人にも。

誰かを本当に理解したいのであれば、光輝を放つ部分だけでなく、陰の一面も観なければ片手落ちだろう。「理(ことわり)」を「解(かい)する」ことが「理解」の本義だとすれば、陰陽の理を良く解することが人間理解への方策の一つに思える。

とは言え、他の誰にも、自分自身すらも立ち入ることが許されない陰を、殆どの人は一つや十くらい抱えているものだ。知らなければよかったと、後悔とともに振り返った経験もなくはない。人間理解さえ上手くいけば人間関係が上手くいくはずだ、と、もしそんな風に思えてしまったら、自己啓発書の読み過ぎを疑った方がいい。

一方、理想の人間関係もまた、皆が希うものである。お互いの光も陰も解し、さらに受け入れることができれば、安心が滲む息の長い関係が望めるだろう。生涯の中でたった一つでもそのような関係とめぐり逢えたら、それは幸福と言わなければならない。

さりとて長続きする関係だけが良い関係かと言えば、「君子の交わりは淡きこと水の如し」と莊子の言う如く、善し悪しを図るのは何も長さだけとは限らない。全ては二面性、つまりは陰陽。それは一つの状態から、価値が多様な形で彫琢されてゆく過程、そこから立ち現れる可能性の姿であるように感じる。

光もあれば陰もあり。光が強くなれば陰は濃く、陰の濃さで光は引き立つ。

信号が青に転じた。

僕もまた、陰から陽へと転じてゆくことにしよう。

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