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【失礼な作家紹介】No.4平山瑞穂「ラス・マンチャス通信」「忘れないと誓ったぼくがいた」

※性的な話が含まれます


「ラス・マンチャス通信」

単行本で269ページ。表紙には作中の姉弟の姿が描かれている。
第一章 畳の兄
第二章 混血劇場
第三章 次の奴が棲む町
第四章 鬼たちの黄昏 
第五章 無毛の覇者

話を各章ごとまとめると、
「『アレ』は姉弟が生まれる前から家にいた。服は着ない。陸魚―空想上の生物でとても臭い―をいじめて遊ぶ。
姉を執拗に犯そうとする『アレ』を「僕」は殺す。その結果ある施設に連行される。」【畳の兄】

「施設で過ごした彼はその後あるレストランに勤務する。店長が女を連れ込みセックスするせいで精液が飛び散っている。それを掃除するのも僕なのに仕事はいつまでも下っ端のままだ。
やがて僕は迷惑客相手に揉め事を起こし退職する。
父は小嶋さんという知り合いに職を探してもらう。僕は不愉快に思うが父には逆らえない。最後に家族で映画を見に行く。映画は「ラス・マンチャス」。額にあざを持つ一族の物語だ。
映画を見るためフェリーに乗る途中トイレに駆け込んだ僕に謎の男が突然『あなたはラス・マンチャスのひとです』と告げる。」【混血劇場】

「僕は灰の降り続く街で職につく。真鍮製の通風管―現実の「空気清浄機」のようなもの―には『ゴッチャリ』という灰の塊がこびりつくのでそれを『テッパ』と呼ばれる薬品で取り除く。
害のない嘘つきの稲河さんと寡黙な箕浦さんのコンビと僕は働く。
ある日稲川さんに風俗店に連れて行かれる。そこには由紀子―箕浦さんの彼女がいた。彼女の父は稲河さんに弱みを握られており、彼女は意に反して売春を強要されている。
その後僕は稲河さんの非道徳的な行為をなじり職場を逃げ出す。
気がつくと街の言い伝えにある『次の奴』のいる土地だった。
『次の奴』は人間に擬態する能力を持つ怪物で、糸で人間を吊り下げ生き血をすすり最後は脳髄をしゃぶる。
僕は『次の奴』に殺されると諦めるが、稲河さんに助けられる。安堵と同時に、『一生稲河さんの支配下から逃れられなくなるのだ』とも僕は思う。」【次の奴が棲む町】

「僕は由紀子と稲河さんと共同生活を営み、稲河さんによって不本意ながら詐欺に手を染める。由紀子は僕を罵りながらセックスをする。
その後僕は小嶋さんの個展に出席しようとするが門前払いを食い、稲河さんの命令の通り近隣の町で詐欺を働こうとすると偶然姉に再開した。
姉は人食いと結婚している。僕は姉を助けようとするが結局何もできない。」【鬼たちの黄昏】

「僕は稲河さんに小嶋さんの屋敷に向かわされる。案内役は越智と名乗る男だ。
しかしそこで僕に与えられた仕事はドラム缶サイズのタンクの中身を入れ替えるだけの単調なものだった。
小嶋さんは人形を描くことに執着する画家だ。しかしその人形は体を切除されかろうじて生きている生身の人間だった。そのなかには僕の姉もいる。栄養源は僕の入れ替えていたタンクの中身だった。
僕は越智をゴルフクラブで殴り殺すが、それを彼も望んでいたらしい。僕はそこにいた稲河さんを『人間のクズだ』と罵る。
僕は屋敷から遠ざかる車内で、由紀子と幸福な生活を送る夢を見るも目が覚める。彼は姉の遺骨を持っている。そして再び眠りに落ちる。」【無毛の覇者】

作品のタイトルのうちいくつかは具体的な意味がわからないものもあるが、なんとなく感じは分かってもらえただろうか。
惹句として「カフカ+マルケス+?=」と書かれているが、個人的には村上春樹作品の気配を感じる。
正体不明の権力者小嶋さんと奇妙な屋敷、彼の部下越智などは「羊をめぐる冒険」を、最後に僕が越智にゴルフクラブで暴力をふるうこと、その血が消しがたい染みのように自覚されること、小説の最後に僕が眠ることなどは「ねじまき鳥クロニクル」をそれぞれ連想させられる。

ただ、村上春樹作品との差別化はできていると思う。全体として生理的な不快感を煽る描写が多く、独特のグロテスクな雰囲気を生み出すのに成功しているし、人間関係に身動きできない僕の姿もファンタジーの奇抜さを現実に縫い留める役割をよく果たしていると思う。
文章も一文が長く、一息に展開が進む。物語を乗せてぐいぐい前に進むのにぴったりの文体だ。
総じてまだ個性と呼べるだけのものが十分出てはいないかもしれないが、それでも柄の大きな、そして固有の読み応えのあるファンタジーだろう。

この「ラス・マンチャス通信」はいい。問題は「忘れないと誓ったぼくがいた」―第2作である。
タイトルからわかるようにいわゆる「セカチュー」の下のドジョウを狙った作品で、十万部以上売れているはずなのだが、筆者の目には問題が多い作だった。

「忘れないと誓ったぼくがいた」

単行本で266ページ。
織部あずさという女性は突然世界から〈消え〉てしまう。僕は眼鏡屋で知り合った彼女の記憶を保つためノートを取ったりビデオを回したりするが無力なままだ。
小説の最後、僕はあずさが彼に残した密かなビデオを見つける。内容は僕への告白だった。
そして僕は映画監督になることを決意するのだった。

ライトなSF要素にラブコメ要素を加えた、おそらく平山氏が娯楽作品として意識的な方向づけをして書かれた小説である。

まず問題としてあるのが、一つ一つのエピソードが弱い。
これは予想に過ぎないが、おそらく読者が話を読み進めやすい構成にしたのだろう。
しかし、僕の親友ヒロト、当て馬の藤村かなえ、実はいい人だったイワ爺、とにかくどの人物も話の分量が少なく、印象に残らない。
例えるなら、「なんか面白そうな人たちのいるクラスを横切ったけど自分は別のクラスでろくな接点も持てないまま卒業した」―そんな読後感がある。

一方良かったのは僕があずさにケータイで実況中継をしながら会いに行くシーン。
一見して滑稽だが、にも関わらずまた〈消え〉るかもしれないあずさに対して目いっぱい作った僕の陽気さが伝わって、実に切ない。

期限付きの命のヒロインというのはベタ中のベタで、それもいい。ベタを軽んじるのは愚か者のすることだ。しかし本編でなぜあずさが〈消え〉るのかがわからないのは消化不良ぎみである。

とにかく、全体的に「薄い」のだ。
ただ設定などそれなりに面白いし、「突出した」作品とまでは呼べなくとも、読者にひとときの楽しい時間を与える役割はよく果たせている。それは十分優れた作家の資質だと思う。

(改変案)
人の作品に文句ばかり言うのもフェアではないので続きを考える。しょせん素人の妄想だから、ここからは読まなくていい。

まず、眼鏡屋で店員のあずさと会うエピソード自体がちょっと不自然な気がする。あくまで個人的な話だが、見かけたことがない。

たとえば僕とヒロトが屋上で会話をするというのはどうだろうか。「1年生にすっげーかわいいのに、なぜか顔も名前も覚えらんねえ子がいるんだよ」といった具合に。「幽霊なんじゃね」とでも言わせて彼女の〈消え〉る現象を暗示させてみるとか。

あずさがいじらしいのは、彼女の活発な行動の背後にあるのが、自己の存在の不確かさによる不安や怯えであることだ。
ということは逆に言えば、それ以外のシーンのあずさは魅力が薄らぐ。
〈消え〉るのは、この小説であずさに与えられた、いわば「マイナスのチャームポイント」である。もう少し前面に押し出せないか。例えば〈消え〉る不確かな彼女の目に、この世界の確かさは美しく見えないか。その視点を書いてみるというのはどうだろう?

当て馬のかなえも物足りない。二つ案がある。
いっそあずさと和解させるか、もしくはどん底まで叩き落とすか。
たとえば、彼女に偽のラブレターを送り、そこで―何だろう―落とし穴に落とすとか。少し残酷すぎるかもしれない。
とにかく、こういうエンタメなら悪は徹底して悪と書き、やっつけるのがいいと思う。悪に深みを持たせるところまでやると作品が分散するはず。

ヒロトもなかなかおいしいキャラで、親がヤクザまがいの建築会社の、おそらくは社長なのだ。
ここでサブストーリーがあったら、読者として嬉しいような気がする。
たとえば彼が父に歯向かう、それというのは父によって闇に消されたたくさんの人々を知っていて、それが許せないと彼の動機を作る。
すると、「消えていくあずさを守ることが、せめて親父の息子である俺の今できる償いかもしれない」―そんな話が作れるかもしれない。


エンタメで個人的に好きなのは、みんなが一つの方向に向かうことである。親友や教師、様々な人が自分の意志を尊重し、同じものを守ろうとしてくれるという―言ってしまえば、「自分が主人公の世界」に読者は魅力を感じるのだと、筆者は思っている。

純文学では逆に、できるだけ人物の方向は分散したほうがいい。ドストエフスキーがいい例である。

とにかく、小説など一生書ける気のしない筆者からすると、これだけ読者を惹きつける設定を生み出せるだけで十分に感じる。うらやましいものだ。

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